閔妃(明成皇后)
概要
驪興閔氏。16歳で高宗の妃に。大院君と争い、閔氏を要職に置き、壬午軍乱で逃げ、清と組み、日清戦争のあとロシアと組んだ。王宮で日本人に殺されて焼かれた。1897年、大韓帝国が明成皇后と追号した。
関わったできごと(1)
乙未事変AD1895年10月8日 · 殺された本文
1851年、朝鮮の京畿道驪州に、名門の驪興閔氏の娘として生まれた。本名は伝わっていない。閔玆暎という名が広く知られているが、確かな根拠は無い。8歳で父を失い、母と二人で暮らした。一族は名家ではあったが、朝廷で権勢をふるう立場にはなかった。

1863年、朝鮮の王位を継いだのは、11歳の高宗だった。実権を握ったのは王の実父、興宣大院君である。大院君は、王族の外戚が政治を牛耳ってきた弊害を断ち切ろうとし、王妃には実家に力の無い家の娘を求めた。選ばれたのが、大院君の夫人と同じ驪興閔氏の、父のいない娘だった。1866年、16歳で15歳の高宗の妃となった。
王の寵愛は、はじめ宮女の李氏に向けられ、李氏は男子を産んだ。王妃は宮中で書物を読み、歴史書を学んだと伝えられる。1871年、王妃はようやく男子を産んだが、生まれつきの病で数日のうちに亡くなった。王妃は大院君に恨みを抱いたと言われる。大院君は、宮女の産んだ王子を後継ぎにしようと考えていた。

大院君は、王宮の景福宮を再建して民に重い負担をかけ、カトリックの信者を弾圧し、フランスやアメリカの艦隊を撃退して、国を閉ざす政策を貫いていた。1873年、儒者の崔益鉉が大院君を批判する上疏を出したのをきっかけに、22歳になった高宗は自ら政治を執ると宣言し、大院君は退いた。その陰で王妃が動いたと考えられている。こののち、王妃の一族である閔氏が政府の要職を占めていく。翌1874年、王妃はのちの純宗を産んだ。
1875年、日本の軍艦が江華島の近くで朝鮮の砲台と交戦し、翌年、朝鮮は日本と条約を結んで港を開いた(江華島条約)。閔氏の政権は、日本から軍事教官を招いて新式の軍隊を作るなど、近代化の政策を進めた。だが、そのしわ寄せは旧式の軍隊に向かった。1882年7月、俸給の米が何か月も払われず、ようやく配られた米に砂や糠が混ざっていたことに怒った兵士たちが反乱を起こした。壬午軍乱である。兵士たちは閔氏の高官を殺し、日本の公使館を襲い、王宮にまで押し入った。王妃は宮女の姿に変装して王宮を脱け出し、地方の忠州に身を隠した。大院君が再び政権に就き、王妃が死んだと発表して葬儀まで行おうとした。

王妃の一族は清に助けを求めた。清は兵を送って反乱を鎮め、大院君を清の天津へ連れ去った。王妃は王宮に戻った。以後、清は朝鮮への干渉を強め、若い軍人の袁世凱が漢城に駐在して力をふるった。1884年、清の支配から抜け出そうとする金玉均ら急進的な開化派が、日本の公使の支援を受けてクーデターを起こし、閔氏の高官を殺害した(甲申政変)。だが清軍が出動し、政権はわずか3日で崩れた。
1894年、南部で東学の農民たちが蜂起した(東学農民戦争)。政府は清に出兵を求め、日本も対抗して大軍を送った。7月、日本軍は王宮を占領し、大院君を担ぎ出して、閔氏の政権を倒した。続いて起きた日清戦争(日清戦争)で日本が勝ち、朝鮮では日本の後押しで改革が進められた(甲午改革)。

1895年4月、日清戦争の講和で日本は遼東半島を得たが、ロシア、ドイツ、フランスの圧力ですぐに手放した(三国干渉)。日本の力の限界を見た王妃は、ロシアに近づき、日本寄りの官僚を政府から遠ざけ、日本人の教官が訓練した部隊を解散させようとした。朝鮮での日本の立場は急速に揺らいだ。
1895年10月8日の未明、日本の公使三浦梧楼の指揮のもと、日本の守備隊と、民間の日本人の壮士たち、日本人教官が訓練した朝鮮の部隊が、景福宮に押し入った(乙未事変)。大院君も担ぎ出されていた。一団は王宮の奥の乾清宮に踏み込み、王妃を探し出して殺した。遺体は近くの林で焼かれた。44歳だった。この事件は、王宮にいた外国人の目撃者によって世界に知られた。日本政府は三浦らを呼び戻して広島で裁判にかけたが、翌年、証拠不十分として全員が釈放された。

身の危険を感じた高宗は、1896年2月、王宮を脱け出してロシアの公使館に移り、1年あまりそこで政治を行った。1897年、王宮に戻った高宗は、国号を大韓帝国と改めて皇帝に即位し、亡き王妃に明成皇后の名を贈って、盛大な国葬を行った。1919年に高宗が亡くなると、二人は同じ陵に葬られた。
閔妃は、立場によってまったく違う顔で語られてきた。日本では長く、一族を要職に就け、巫女や祈祷に多額の費用を使い、清やロシアに頼って国を乱した王妃として描かれた。韓国では、日本に抵抗して国を守ろうとし、そのために殺された国母として、明成皇后の名で記憶されている。イギリスの旅行家イザベラ・バードは1895年に王妃に会い、痩せて青白い顔に鋭い知性を感じさせる目をした女性で、話しぶりには力があった、と書き残している。王妃の写真として出回っているものはいくつかあるが、確かに本人だと言えるものは無い。顔の分からない王妃である。2007年、王妃が殺された乾清宮が景福宮の中に復元された。