高麗版大蔵経

概要
モンゴルの侵攻のさなか、8万枚を超える版木を16年かけて彫った。いまも完存している。
場所
37.97°N 126.55°E · 朝鮮民主主義人民共和国(高麗の都)
本文
大蔵経は、仏教の経典とその注釈を一つにまとめた全集である。10世紀の後半、中国の宋は、この全集を初めて木版で印刷した。書き写すしかなかった膨大な経典が、版木さえあれば何度でも刷れるようになったのである。周りの国々は宋の大蔵経を求め、やがて自分たちでも版木を彫り始めた。大蔵経の版木を持つことは、仏教を守る国の力と文化の高さを示すことでもあった。
高麗で最初に大蔵経の版木が彫られたのは、11世紀の初め、北方の契丹(契丹(遼)の建国)が繰り返し攻め込んできた時代である。仏の力で外敵を退けたいという願いのもと、数十年をかけて版木が完成した。これを初雕大蔵経と呼ぶ。版木は大邱の近くの符仁寺に納められた。

13世紀に入ると、北からさらに強大な敵が現れた。モンゴルである。1231年、モンゴル軍が高麗に攻め込み、翌年、武人政権を率いていた崔瑀は(崔氏政権の始まり)、都を開京から海を隔てた江華島へ移して抵抗を続けた。モンゴル軍は陸地を荒らし回り、このとき符仁寺の初雕大蔵経の版木も焼かれてしまった。
高麗の朝廷は、もう一度大蔵経を彫ることを決めた。1236年、大蔵都監という役所が置かれ、作業が始まった。国王が神々と仏に捧げた祈りの文は、かつて契丹が攻めてきたとき大蔵経を彫ると契丹の兵が退いた、今また彫れば仏の力でモンゴルの兵も退くだろう、と述べている。版木は1240年代の終わりまでに彫り上げられ、1251年、国王が完成を祝う儀式を行った。全部で8万1258枚。その数から、韓国では八万大蔵経とも呼ばれる。

版木は縦24センチ、横70センチほどの板で、両面に経文が彫られている。一面におよそ320字、全体で5200万字を超えるとされる。材料には山桜などの木が使われた。木を海水に浸し、蒸すか煮るかしてから乾かし、反りや割れ、虫の害を防いだと伝えられる。彫り手は一字彫るごとに三度拝んだという言い伝えもある。言い伝えの真偽はともかく、彫られた文字は全体を通して形がそろい、誤りがきわめて少ないことが知られている。
正確さの理由は、校訂の作業にもあった。作業を主導した僧の守其は、焼失した初雕本と宋の大蔵経、契丹の大蔵経を突き合わせ、文字の違いを一つずつ調べて正しい本文を定めた。その記録も残っている。こうした丁寧な校訂によって、高麗版大蔵経は、漢文の大蔵経の中でも最も信頼できる版の一つとされるようになった。20世紀に日本で編まれた大正新脩大蔵経も、高麗版を底本にしている。

だが、版木が彫り上げられても、モンゴル軍は退かなかった。侵攻は30年近くにわたって繰り返され、国土は荒れ果てた。1259年、高麗はついにモンゴルに降り、のちに元の支配のもとに入る。高麗の兵は、元の日本遠征(元寇)にも動員されることになった。仏の力で国を守るという願いは、かなわなかったのである。
版木は江華島に保管されたのち、朝鮮王朝の初めの14世紀末に、南の伽耶山の海印寺に移された。海印寺には15世紀に、版木を納めるための蔵経板殿が建てられた。建物の前と後ろの壁には、大きさの違う格子窓が上下に設けられ、風が建物の中を流れるように工夫されている。床の土には炭や石灰、塩などが混ぜられ、湿気が多いときは吸い込み、乾いたときは吐き出すと説明されている。この建物のおかげで、木の版木が800年近く、ほとんど傷まずに残ってきた。
高麗版大蔵経は、日本とも深い関わりがある。室町時代の日本の大名や寺院は、朝鮮へ何度も使いを送って大蔵経の刷り本を求めた。15世紀の前半には、室町幕府が版木そのものを譲ってほしいと申し入れ、朝鮮の朝廷に断られている。日本の各地の寺には、この時代にもたらされた高麗版の刷り本が今も伝わっている。
高麗では13世紀、金属の活字による印刷も行われていた。現存する世界最古の金属活字の本とされる『直指』は、14世紀の後半に刷られている(『直指』の印刷)。木版の大蔵経と金属活字は、印刷の技術の二つの道を示している。
蔵経板殿は1995年に世界遺産に、版木は2007年にユネスコの「世界の記憶」に登録された。外敵を退ける願いはかなわなかったが、戦乱のさなかに彫られた8万枚の版木は、それを彫らせた国より長く生き残り、今も海印寺の蔵の中に整然と並んでいる。