高句麗の滅亡
概要
隋と唐の遠征を70年はね返した国が、淵蓋蘇文の死後の兄弟争いで内から崩れた。唐と新羅が平壌を囲み、一か月で落ちた。700年の国が終わり、遺民は唐へ、新羅へ、そして渤海を建てる。
場所
39.04°N 125.76°E · 朝鮮民主主義人民共和国
関わった人(1)
文武王?–AD681年 · 新羅王本文
高句麗は、中国の東北部から朝鮮半島の北部にかけて広がった国である。伝承では紀元前37年に建てられ、4世紀に楽浪郡を滅ぼし、5世紀には都を平壌に移した。中国が南北に分かれていた時代には、北東アジアで最も強い国の一つだった。
6世紀の末、中国が隋によって統一されると、高句麗は大国と国境で向き合うことになった。隋は598年から614年までに4度の遠征を送った。612年の遠征では、高句麗の将軍乙支文徳が隋の大軍を薩水で打ち破った(薩水の戦い)。度重なる遠征の失敗は隋の滅亡を早めた。続く唐も、645年には太宗(唐の太宗)自らが大軍を率いて攻めこんだが、安市城を落とせずに引き返した(安市城の戦い)。その後も唐は遠征をくり返したが、高句麗は持ちこたえた。

その高句麗を率いていたのは、宰相の淵蓋蘇文である。642年、彼はクーデターで王と大臣たちを殺し、王の甥を宝蔵王として立てて、自ら国の実権を握った。唐に対しては強硬な姿勢を貫いた。
唐は戦い方を変えた。朝鮮半島の南東の新羅と組み、まず半島の南西の百済を挟み撃ちにした。660年、唐と新羅の軍は百済の都を落とした(百済の滅亡)。百済を助けようとした倭国の軍も、663年に白村江で敗れた(白村江の戦い)。高句麗は、北と南の両方から攻められる形になった。
淵蓋蘇文は、660年代の半ばに死んだ。その年は、史料によって664年から666年まで食い違う。長男の男生が跡を継いで国の実権を握ったが、地方を巡っているあいだに、弟の男建と男産が都の平壌を押さえた。兄弟の争いが始まり、追われた男生は、国内城に拠って唐に降った。そして唐軍の道案内に立った。淵蓋蘇文の弟の淵浄土も、12の城を連れて新羅に降った。高句麗は、外の敵より先に、内側から割れたのである。
唐の高宗は、老将の李勣に大軍を任せて送り出した。667年、唐軍は遼東の要地の新城を落とし、周りの城を次々に降した。668年2月には扶余城を落とした。南からは、新羅の文武王が兵を出した。名将金庾信が大将軍に任じられたが、病のために都に残り、王の弟の金仁問や、金庾信の弟の金欽純らが軍を率いた。
668年9月、唐と新羅の軍は平壌を囲んだ。包囲はひと月あまりに及んだ。宝蔵王は男産らを唐の陣へ送って降伏を申し出たが、男建は城門を閉ざして戦い続けた。男建は軍の指揮を信誠という僧に任せていた。その信誠がひそかに唐に通じ、城門を開いた。唐の兵がなだれこみ、城に火が放たれた。男建は自ら命を絶とうとしたが死にきれず、捕らえられた。
宝蔵王と男建、男産、そして多くの貴族と民が、唐へ連れていかれた。20万あまりと伝える史料がある。唐は平壌に安東都護府を置いて、高句麗の旧領を治めようとした。宝蔵王は唐で官位を与えられ、のちに遼東に戻されたが、靺鞨と結んで国を立て直そうとしたことが発覚し、四川の地へ流されて死んだ。
高句麗は、伝承の建国から数えて705年、28代の王のもとで続いた。隋と唐の大軍を70年にわたって退けてきた国が、指導者の死から数年の兄弟争いで崩れ、ひと月の包囲で落ちた。
国が滅んだあとも、遺民たちの抵抗は続いた。新羅はその一部を受け入れ、王族の一人を立てて、唐に対する盾として使った。670年からは、新羅自身が唐と戦いはじめる。かつての同盟者は半島の支配をめぐって敵になり、676年、新羅は唐の軍を半島の北へ退かせた(新羅の朝鮮半島統一)。
唐へ移された遺民、新羅に入った遺民、北方の靺鞨や突厥の地へ逃れた遺民もいた。698年、高句麗の遺民と靺鞨の人びとが、中国の東北部に新しい国を建てる。渤海である(渤海の建国)。渤海は、日本に送った国書で、自らを高句麗の後を継ぐ国と名乗っている。高句麗が誰の歴史に属するのかは、いまも中国と韓国のあいだで争われる問題になっている。