できごと

朝鮮王朝の成立

Joseon
AD1392年
重要度 4
シベリアの諸集団明チャガタイ汗国チベットパガン朝スコータイ朝日本クメール帝国朝鮮王朝大越アユタヤ朝大越オリッサアイヌモシリチャンパAD1392年漢陽
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概要

仏教から儒教へ国の柱を移した。この王朝が500年続く。

場所

漢陽
37.57°N 126.98°E · 大韓民国・ソウル(朝鮮王朝の都)

本文

14世紀の後半、朝鮮半島の高麗は、内と外から揺らいでいた。北では、中国でモンゴルの元が衰え、新しく明の成立が起きて、高麗はどちらにつくかで割れていた。南の沿岸は、倭寇の襲撃にたびたび荒らされた。国の内では、権門と呼ばれる有力な一族や大寺院が広い土地を抱え込み、国の財政は痩せ、農民は重い負担にあえいでいた。

こうした中で頭角を現したのが、李成桂である。北東の辺境の武人の家に生まれ、倭寇や紅巾の軍、元の残党との戦いで勝ちを重ねて名を上げた。弓の名手として知られ、彼の周りには、改革を求める若い儒学者たちが集まっていた。その中心が鄭道伝である。

太祖李成桂
太祖李成桂Wikimedia Commons Jo Jung-muk(?-?), Pak Gijun(?-?), Baek Eunbae(1820-?), Yu Suk(1827-1873) · Public domain

1388年、明が高麗の北東部の領有を主張すると、高麗の朝廷は、明の遼東を攻めることを決め、李成桂らに出兵を命じた。李成桂は、小国が大国に逆らうべきではなく、雨の多い季節の出兵は無理だとして反対したが、聞き入れられなかった。軍が鴨緑江の中州の威化島まで来たところで、李成桂は兵を引き返し、都の開京に攻め込んで実権を握った(威化島回軍)。

それから4年、李成桂と鄭道伝らは、田制の改革で権門の土地を取り上げ、改革派の官僚に土地を分け与える仕組みを作って、力の基盤を固めた。高麗の王朝を守ろうとした重臣の鄭夢周は、1392年、李成桂の五男の李芳遠の手の者に、開京の善竹橋で殺された。その年の7月、李成桂は家臣たちに推される形で王位に就いた。

東莱城の戦い
東莱城の戦いWikimedia Commons Public domain

新しい王朝は、明に使者を送り、国の名の候補を示して選んでもらった。明が選んだのが、古代の国の名にちなむ「朝鮮」である。都は、開京から漢陽(いまのソウル)に移され、景福宮が建てられた。明に対しては、臣下の礼をとって朝貢する。大国に従うことで、国の安全を確かめる道を選んだのである。

新しい王朝のもっとも大きな転換は、国の柱を仏教から儒教、なかでも朱子学の成立で体系づけられた朱子学へ移したことである。高麗では仏教が国の教えとされ、寺院は広大な土地と多くの奴婢を持っていた。朝鮮はその寺院の土地を削り、僧の数を抑え、都の中から寺を遠ざけた。「崇儒抑仏」と呼ばれる。国を治めるのは、儒教の経典を学んで科挙に合格した官僚たちである。

壬午事変で焼き討ちされた日本公使館から脱出する公使館員(1882年)
壬午事変で焼き討ちされた日本公使館から脱出する公使館員(1882年)Wikimedia Commons Utagawa Kunimatsu · Public domain

その担い手となった支配層は、両班と呼ばれた。もとは文官と武官の二つの班を指す言葉だったが、やがて科挙を通じて官僚を出す家柄の層を指すようになった。朝鮮の政治は、王と両班の官僚たちが、儒教の理念をめぐって議論し、ときに激しく争いながら進められていく。

儒教の秩序は、国の政治だけでなく、家族と暮らしの隅々にまで及んでいった。祖先を祀る祭祀が重んじられ、長男を中心とする家の序列が固まった。女性の再婚は、再婚した女性の子孫は科挙を受けられないという形で、厳しく抑え込まれた。こうした変化は王朝の初めに一度に起きたのではなく、数百年をかけて社会に根を下ろしていったものである。その影響は、いまの韓国と北朝鮮にも残っている。

甲午農民戦争の首謀者として逮捕された全琫準(1894年)
甲午農民戦争の首謀者として逮捕された全琫準(1894年)Wikimedia Commons Murakami Tenshin (村上天眞) · Public domain

王朝の初めは、王位をめぐる争いで血にまみれた。太祖となった李成桂が、末の子を世子に立てたことに李芳遠が反発し、1398年、鄭道伝と異母弟たちを殺した。李成桂は失意のうちに王位を退いた。李芳遠はのちに3代目の王(太宗)となり、王権を固めた。

その子が、4代目の世宗である。世宗は学者たちを集めて学問を奨励し、天文や暦、農業の研究を進めさせた。そして1446年、民が自分たちの言葉を書き表せるようにと、新しい文字を定めて広めた(訓民正音の頒布)。いまのハングルである。

ジョルジュ・ビゴーによる当時の風刺画(1887年)日本、中国(清)が互いに釣って捕らえようとしている魚(朝鮮)をロシアも狙っている
ジョルジュ・ビゴーによる当時の風刺画(1887年)日本、中国(清)が互いに釣って捕らえようとしている魚(朝鮮)をロシアも狙っているWikimedia Commons Georges Ferdinand Bigot · Public domain

朝鮮王朝は、16世紀末の豊臣秀吉の侵攻や、17世紀の清の侵攻をくぐり抜け、19世紀の末まで続いた。1897年に国号を大韓帝国と改め、1910年に日本に併合されるまで、同じ王家が500年以上にわたって半島を治めた。一つの王朝がこれほど長く続いた例は、世界でもまれである。

動画(1)

178 李氏朝鮮王朝 世界史20話プロジェクト第18話Historia Mundi ムンディ先生高校の世界史を200講で通す講義の第178講「李氏朝鮮王朝」

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