人物

王建

Wang Geon
AD877年 – AD943年(享年66・推定)
高麗重要度 4

概要

開城の海商の子。弓裔の水軍の将で羅州を取った。918年、部下に押されて弓裔を追った。新羅の敬順王を「政承公」にして娘を娶り、後百済を破り、渤海の太子を迎えた。29人の妻。「北進」と「仏教」の遺訓。太祖。

所属

高麗

関わったできごと(1)

高麗の建国AD918年 · 建国

本文

877年、朝鮮半島中部の松嶽(いまの開城)に生まれた。父の王隆は、礼成江の河口を拠点に海の交易で富を蓄えた地方の豪族だった。のちの『高麗史』は、王家の祖先を唐の皇帝につなげる系譜や、風水の僧の道詵が父に、ここに家を建てれば聖人が生まれると告げた話を載せている。王朝の始祖を飾るために後から作られた話と考えられている。

太祖王建の実物大銅像(951年製作、1992年に開城で発見)
太祖王建の実物大銅像(951年製作、1992年に開城で発見)Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

王建が生まれた頃、新羅の朝鮮半島統一から200年がたった新羅は衰えていた。都の慶州では王位をめぐる争いが続き、地方では豪族が城を構えて自立し、農民の反乱が広がった。やがて南西部では甄萱が後百済を、中部では弓裔が後高句麗を名乗って王を称し、新羅と合わせて三つの国が並び立った(後三国の分立)。896年、王隆は松嶽ごと弓裔に帰順し、20歳の王建も弓裔の将になった。

王建の名を上げたのは水軍だった。903年頃、王建は船団を率いて半島の西の海を南下し、後百済の背後にあたる羅州(錦城)一帯を攻め取った。甄萱の後百済にとって、本拠のすぐ西に敵の拠点ができたことになる。王建はその後もたびたび海から後百済を攻め、海上の交易路を押さえた。海の商人の家に育った経験が生きた。功を重ねた王建は、913年には官僚の最高位である侍中にまで上った。

将軍時代の高麗太祖王建と呉氏(後の荘和王后)
将軍時代の高麗太祖王建と呉氏(後の荘和王后)Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

弓裔は国号を摩震、さらに泰封と改め、都を鉄原に移した。だが晩年の弓裔は、自分を弥勒仏と称し、人の心を読む力があると言って、疑った臣下を次々に殺した。王妃と二人の王子まで殺したと伝えられる。918年6月、洪儒、申崇謙ら4人の将軍が夜、王建の家を訪ね、王に立つよう迫った。ためらう王建に、妻の柳氏が自ら鎧を着せたという話が『高麗史』にある。王建が兵を挙げると弓裔は城を逃げ出し、まもなく民に殺された。王建は即位し、国号を高麗、年号を天授とした(高麗の建国)。翌年、都を故郷の松嶽に移した。

王建の戦略は、新羅を立て、後百済と戦うことだった。千年近く続いた新羅の王室には、なお権威があった。一方、甄萱は927年に慶州に攻め込んで新羅の景哀王を自害に追い込み、敬順王を立てた。王建は新羅を救おうと兵を出したが、帰り道の公山(いまの大邱の近く)で甄萱の軍に囲まれて大敗した。将軍の申崇謙が王建の鎧を着て身代わりになって戦死し、王建はかろうじて逃れたと伝えられる。930年、古昌(いまの安東)の戦いで後百済軍を破ると、慶尚道の豪族たちは次々と高麗についた。

935年、後百済で内紛が起き、甄萱は息子の神剣に寺に幽閉された。甄萱は脱け出して、かつての宿敵の王建のもとへ逃げてきた。王建は彼を厚く迎えた。同じ年、新羅の敬順王が国を挙げて高麗に降った。王建は敬順王に自分の長女を嫁がせて重い位を与え、自らも新羅王族の娘を妃に迎えた。936年、甄萱を伴った高麗軍は一利川で神剣の軍を破り、後百済は滅んだ。半島は再び一つになった。

北の情勢も動いていた。926年、渤海の建国以来200年あまり続いた渤海が、契丹に滅ぼされた(渤海の滅亡)。王建は渤海の遺民を受け入れ、934年に渤海の世子(太子)の大光顕が数万の民を率いて来ると、王族の姓を与えて厚遇した。王建は高麗を高句麗の後継と位置づけ、平壌を西京として重んじ、北へ領土を広げようとした。942年、契丹(契丹(遼)の建国)が使者と50頭の駱駝を送ってくると、王建は、契丹は同盟を結んでいた渤海を一朝にして滅ぼした無道の国だとして、使者を島に流し、駱駝を開京の万夫橋の下につないで餓死させた。

国内では、各地の豪族をどう束ねるかが最大の課題だった。王建は豪族に王氏の姓を与え、地方の支配を認め、その娘たちを次々に妃に迎えた。后妃は29人にのぼり、王子は25人いた。婚姻で豪族と結ぶ方法は、統一を早めたが、王位継承の火種も残した。

943年、王建は病に倒れ、子孫への遺訓として『訓要十条』を残したとされる。仏教を守ること、寺を勝手に建てないこと、契丹のような国の風俗をまねないこと、西京を重んじることなどが並ぶ。そのうち第8条は、車峴より南、公州江の外の地は地勢が逆らっていて、人の心もそうなので、そこの人を用いるな、と述べる。これがいまの全羅道にあたるとされ、のちの時代の地域差別の起源だとまで言われてきた。ただし、『訓要十条』そのものが後の時代に作られたとする説が根強く、地名がどこを指すのかも定まっていない。それでも、湖南(全羅道)と嶺南(慶尚道)の対立が深まった20世紀の韓国で、この条文は繰り返し持ち出された(光州民主化運動)。

943年、王建は67歳で亡くなった。予想どおり、死後は王子たちと外戚の豪族が王位をめぐって争った。4代目の光宗が奴婢を解放して豪族の力をそぎ、科挙を始めて(高麗の科挙)、ようやく王の力が固まった。高麗はその後450年あまり続き、その名は西の世界に伝わって、いまのコリアという呼び名の元になった。

1992年、開城の王建の陵の近くから、等身大に近い青銅の像が掘り出された。冠をかぶった裸の座像で、もとは本物の衣を着せて祀られていたと考えられている。始祖の王は、仏像のように祀られていたのである。開城はいま北朝鮮にあり、像は平壌の博物館に収められている。2006年には韓国でも公開された。

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