人物

崔致遠

Choe Chiwon
AD857年 – ?
新羅重要度 4

概要

12歳で唐へ。18歳で科挙に合格。黄巣の乱で高駢の書記になり、「討黄巣檄」を書いた。「天下の人、皆汝を殺さんと思う」。29歳で帰り、真聖女王に「時務十条」を献じ、嘉納されたが行われず、伽耶山に消えた。『桂苑筆耕集』。朝鮮の漢文学の祖。

所属

新羅

関わったできごと(1)

黄巣の乱AD875年 · 檄を書いた

本文

崔致遠は、統一新羅の末期の文人である。字は孤雲、または海雲。12歳で唐に渡って科挙に合格し、唐の地で名文家として知られたのち、故国に戻って改革を説いたが、身分の壁に阻まれ、乱世の中で山に姿を消した。朝鮮の漢文学の祖と仰がれ、のちに儒学の聖廟に祀られた最初の人物の一人になった。

崔致遠の肖像
崔致遠の肖像Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

857年、新羅の都金城(いまの慶州)の沙梁部に生まれた。新羅には骨品制という厳しい身分制度があり(新羅の骨品制)、王族にあたる真骨の下に、六頭品、五頭品と続いた。崔致遠の家は六頭品で、学問や実務の能力があっても、国の最高の官職には就けない家柄だった。新羅の六頭品の若者の中には、唐に留学して道を開こうとする者が少なくなかった。

868年、崔致遠は12歳で唐へ渡った。出発の際、父は、10年のうちに科挙に合格しなければ私の息子ではない、と言い渡したと伝えられる。崔致遠は寝る間も惜しんで勉強し、874年、18歳で外国人向けに設けられた枠の科挙に合格した。2年後、長江の下流の県の尉という役職に就き、地方官として唐に仕え始めた。

崔致遠の肖像
崔致遠の肖像Wikimedia Commons Chae Yong-shin · Public domain

そのころ唐は、各地で起きた反乱に揺れていた。塩の密売人だった黄巣が起こした反乱(黄巣の乱)は、華南から北へ攻め上がり、880年には都の長安を落とした。崔致遠は、反乱の鎮圧を任された淮南節度使の高駢に招かれ、その幕下で文書の起草を担当した。881年に高駢の名で書いた「討黄巣檄文」(黄巣を討つ檄文)は、その中の一節、天下の人々がみなお前を殺そうと思っているばかりでなく、地の底の鬼たちもすでにお前を殺そうと相談している、という激しい言葉で名高い。これを読んだ黄巣が驚いて寝台から転げ落ちた、という話も伝わるが、後世の伝説である。

884年、崔致遠は唐の皇帝の詔を携える使者として新羅への帰国の途についた。17年ぶりの故国だった。翌年、新羅王に差し出したのが、唐で書いた詩文を集めた『桂苑筆耕集』20巻である。高駢の幕下で書いた公文書や手紙、詩が収められ、いまに伝わる朝鮮で最も古い個人の文集とされる。

崔致遠の肖像画
崔致遠の肖像画Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

新羅で崔致遠は、王の侍講や、文書を司る翰林学士などの職に就いた。だが新羅もまた傾きかけていた。真骨の貴族どうしの争いで王権は弱まり、地方では豪族が力をつけ、税は届かず、各地で農民の反乱が起きていた。崔致遠は地方の郡の長官に出され、太山郡、天嶺郡、富城郡を治めた。天嶺郡(いまの咸陽)では、川の氾濫を防ぐために堤を築いて木を植えさせたと伝えられ、その林はいまも残っている。

894年、崔致遠は真聖女王に、国政を立て直すための十余条の意見書を差し出した。『三国史記』によれば、女王はこれを喜んで受け入れ、崔致遠に六頭品として最高の位である阿飡を授けた。だが、真骨の貴族たちが握る政治の中で、その提言が実行されることはなかった。新羅はやがて、甄萱の後百済と弓裔の後高句麗が並び立つ後三国の時代に入っていく。

失意の崔致遠は官職を退き、各地の山や海辺をさすらった。晩年は家族を連れて、伽耶山の海印寺に身を寄せた。その死の年も場所も分かっていない。ある朝、冠と履物を林の中に残したまま姿を消し、仙人になったという伝説が生まれた。

崔致遠は高麗を開いた王建に手紙を送り、新羅の都は黄色く枯れた葉、高麗の都の山は青々とした松、と書いて新しい王朝の到来を予言した、と『三国史記』は伝える。この話の真偽は疑われているが、高麗が彼を新しい時代の先駆けとして重んじたことを物語っている。高麗の顕宗は1020年、崔致遠を儒学の聖廟に従祀し、文昌侯の名を贈った(高麗の建国から約百年後のことである)。

崔致遠は、儒教・仏教・道教の三つの教えのすべてに通じていた。新羅の花郎の徳を記した碑の序文に、この国には玄妙な道があり、それは三つの教えを包み込んでいる、と書いている。新羅の名僧たちのために書いた四つの寺の碑文、いわゆる「四山碑銘」は、新羅の仏教と漢文の文体を伝える貴重な資料になっている。

慶州崔氏は、崔致遠を一族の始祖と仰いでいる。唐で科挙に受かった新羅の少年が書いた檄文は、千年後も朝鮮の書堂で子どもたちが暗唱する名文だった。

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