金庾信
概要
滅んだ伽耶の王族の子で、新羅の花郎になった。妹を金春秋(武烈王)に嫁がせ、義兄弟として国を動かした。百済を滅ぼし、高句麗を滅ぼし、唐の軍を追い出す途中で死んだ。半島の統一の、軍の側の顔になる。
所属
新羅関わったできごと(2)
黄山伐の戦いAD660年7月 · 新羅の将軍百済の滅亡AD660年 · 新羅軍本文
金庾信は595年、新羅に生まれた。家はもともと新羅の人ではない。洛東江の下流にあった伽耶の国々のひとつ、金官国の王家である(金官伽耶の建国(伝承))。532年、最後の王の仇衡王は国を挙げて新羅に降り、一族は新羅の都に移って高い身分を与えられた。庾信はその仇衡王の曾孫にあたる。祖父の金武力は554年、百済の聖王を討ち取った戦いの将軍で、家は武勲で新羅に根を下ろしていった。それでも、新羅の身分制度(新羅の骨品制)の中で、降った国の王族は外から来た者として見られ続けた。

父の金舒玄は、新羅の王族の娘である万明と恋仲になり、娘の父に反対されて駆け落ち同然に結ばれた、と『三国史記』は伝える。生まれた庾信は15歳で花郎になった。花郎は貴族の若者を頭に戴く青年の集団で、山野を巡って心身を鍛え、歌や舞を学び、戦となれば先頭に立った。庾信の率いる郎徒は「龍華香徒」と呼ばれた。17歳のとき、高句麗・百済・靺鞨が国境を侵すのを憂えて山の洞窟にこもり、天に祈ると、一人の老人が現れて秘法を授けた、と『三国史記』にある。英雄の若き日を飾る伝説である。
史書に確かな姿で現れるのは629年、高句麗の娘臂城を攻めたときである。新羅軍が押し返されて兵が浮き足立つと、庾信は自分が着物の襟になって全軍を引き締めると言って、ひとり馬を駆って敵陣に突入し、将を斬ってその首を持ち帰ったという。この一撃で新羅軍は勢いを取り戻し、城を落とした。
庾信の運命を決めたのは、王族の金春秋との結びつきである。『三国遺事』にはこんな話が残る。庾信の姉の宝姫が、西の山に登って小便をすると都じゅうが水に浸かる夢を見た。妹の文姫はその夢を絹の裳と引き換えに買い取った。ほどなく庾信は春秋と蹴鞠をして、わざと春秋の衣の紐を踏みちぎり、家で妹に縫わせた。やがて文姫は身籠った。庾信は、嫁がぬまま子を宿した妹を焼き殺すと言って庭に薪を積み、火を上げた。南山に出ていた善徳女王がその煙に気づき、わけを聞くと、そばにいた春秋の顔色が変わった。女王は、お前のしたことだろう、早く行って救え、と命じ、二人は結ばれた。どこまで事実かは分からないが、二人の家が婚姻で結ばれたのは確かである。文姫の生んだ子がのちの文武王になる。後年、庾信自身も春秋の娘を妻に迎えた。
642年、百済が新羅西部の大耶城を落とし、春秋の娘夫婦が殺された。春秋は高句麗へ援軍を求めに行って捕らえられかけ、庾信は兵を集めて国境に迫り、春秋を取り戻す構えを見せた。その後、春秋は唐と結ぶ道を選ぶ。644年以降、庾信は百済との国境で戦い続け、帰る暇もなく次の戦場へ向かったと伝わる。家の前を通るときにも門をくぐらず、家から水を汲んで来させて一口飲み、家の水の味は変わらないと言って去ったという逸話がある。
647年、重臣の毗曇らが、女王では国を治められないとして反乱を起こした。ある夜、大きな星が女王の陣の側に落ち、兵が凶兆だと動揺した。庾信は人形に火をつけて凧に結び、夜空へ揚げ、落ちた星がまた天に昇った、と言いふらして士気を立て直した、と『三国史記』は書く。乱は鎮められたが、そのさなかに善徳女王は世を去った。
654年、春秋が王位に就いた。武烈王である。庾信は最高の将軍として、王の義兄として、国の柱になった。660年、唐の蘇定方の大軍が海から百済を突くのに合わせ、庾信は5万の兵で陸から進んだ。黄山の野で待ち受けた百済の将軍階伯の決死の5000に、新羅軍は4度挑んで4度退けられた。若い花郎の官昌がひとりで敵陣に突入して首を斬られ、その首が馬の鞍に結ばれて送り返されると、新羅軍は奮い立って5度目に勝った(黄山伐の戦い)。
約束の日に1日遅れて唐の陣に着くと、蘇定方は遅刻を咎めて新羅の将を斬ろうとした。庾信は斧を手にして、黄山の戦いを見もせずに遅れを責めるなら、先に唐と戦って決着をつける、と言い放った。蘇定方は引き下がったという。百済の都はまもなく落ちた(百済の滅亡)。この場面は、新羅が唐の兵を借りながら、唐の下に入る気はなかったことをよく示している。
661年、武烈王が死に、文武王が継いだ。唐軍が高句麗の平壌を囲んで飢えると、庾信は冬の高句麗領内を突っ切って、2000両余りの車で食糧を届けた。凍えて倒れる兵が続く中、自ら肩をはだけて馬を進め、兵を励ましたと伝わる。668年、新羅と唐は平壌を落とし、高句麗は滅んだ(高句麗の滅亡)。74歳の庾信は老いと病のため、王の命で都の守りに残った。
その後、新羅は旧百済・高句麗の地を支配しようとする唐と戦うことになる。672年、唐軍に敗れて逃げ帰った庾信の次男元述を、庾信は家門の恥として斬れと王に求め、許されると勘当した。元述は後に戦いで功を立てたが、母は庾信の死後も息子に会おうとしなかったという。厳しい一家の話として伝えられた。
673年、庾信は79歳で死んだ。見舞った文武王に、小人を遠ざけ君子を近づけるように、と言い残したと伝わる。新羅が唐の軍を半島から追い出し、新羅の朝鮮半島統一を果たすのは、その3年後のことだった。死から百数十年後の835年、庾信は興武大王の号を贈られた。王でない臣下が大王と呼ばれたのは、新羅で彼ただ一人とされる。滅んだ伽耶の王家の子が、新羅の王家と血で結ばれ、軍を率いて半島を一つにした。韓国では、統一を成し遂げた英雄として、いまも銅像や物語で親しまれている。