人物

李成桂

Yi Seong-gye
AD1335年10月27日 – AD1408年6月18日(享年72)
朝鮮重要度 5

概要

咸鏡道の武人。紅巾と倭寇を破って名を上げた。威化島で軍を返し、崔瑩を殺し、恭譲王を退け、王になった。太祖。鄭道伝と国を作り、漢陽に都した。末子を世子にして息子たちが殺し合い、五男の李芳遠に押されて退位した。

関わったできごと(1)

威化島回軍AD1388年5月 · 将軍

本文

1335年、朝鮮半島の北東部、いまの咸鏡道の永興に生まれた。当時このあたりは、モンゴル帝国の元が置いた双城総管府という役所の支配下にあり、高麗の国の外だった。父の李子春は、元からこの地方の千戸(武人の長)に任じられた有力者だった。一家は半島南西部の全州の出だと称していたが、何代も前からこの国境地帯に住み、女真の人々とも行き来する土地で暮らしていた。

李成桂(朝鮮太祖)の肖像
李成桂(朝鮮太祖)の肖像Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

1356年、高麗の恭愍王は、衰えた元から自立しようとして、双城総管府を攻めた。このとき李子春は内側から高麗に応じ、一族は高麗の臣下になった。李成桂は20代の初めで、ここから高麗の武将として歩み始める。

名を上げたのは、半島に次々と押し寄せる外敵との戦いだった。1361年、中国で元に反乱を起こした紅巾の軍が半島に攻め込み、都の開京を落とした。翌年、高麗軍が都を取り返したとき、李成桂は真っ先に城に入った一人として名を挙げた。同じ1362年には、北東から侵入した元の将軍ナガチュの軍を撃退している。李成桂は弓の名手として知られ、この地方で育った騎馬の武人らしく、馬上から矢を射て敵の将を次々に倒したと伝えられる。

李成桂(朝鮮太祖)の肖像
李成桂(朝鮮太祖)の肖像Wikimedia Commons Jo Jung-muk(?-?), Pak Gijun(?-?), Baek Eunbae(1820-?), Yu Suk(1827-1873) · Public domain

1370年代から、南の沿岸では倭寇の被害がひどくなっていた。1380年、倭寇の大軍が内陸まで攻め入ったとき、李成桂は全羅道の荒山で彼らを迎え撃ち、大勝した。敵の中には、阿只抜都と呼ばれる10代半ばの若い将がいて、全身を鎧で固め、高麗の兵を恐れさせていた。李成桂がその兜を矢で射落とし、部下の李之蘭がすかさず射殺した、と『高麗史』は伝える。この荒山の勝利で、李成桂は国じゅうに知られる英雄になった。

そのころ中国では、元を北へ追った明が勢いを増していた。1388年、明は高麗に、かつて元が支配していた北東の土地を明のものにすると通告した。高麗の実権を握っていた老将崔瑩と禑王は、これに怒って、明の拠点である遼東を攻めることを決めた。李成桂は反対した。小国が大国に逆らうべきではない、夏に兵を動かすのはよくない、全軍が北に出れば倭寇に南を突かれる、長雨で弓のにかわが緩み兵が病む。この四つの理由を挙げたが、聞き入れられなかった。

朝鮮太祖、李成桂
朝鮮太祖、李成桂Wikimedia Commons Public domain

李成桂は副将として軍を率いて北へ向かい、鴨緑江の中州、威化島まで進んだ。そこで川が増水して渡れず、兵は病み、逃亡が相次いだ。李成桂は軍を返すことを決めた(威化島回軍)。命令に背いて都へ引き返したのである。開京に入った李成桂は崔瑩を捕らえて流し、のちに処刑した。禑王は退位させられ、その幼い子の昌王が立てられたが、翌年には、禑王と昌王は王氏の血を引いていないという理由で廃され、遠い王族の恭譲王が立てられた。高麗の実権は李成桂の手に移った。

李成桂のまわりには、新しい国を作ろうとする儒学者たちが集まっていた。その中心が鄭道伝である。朱子学を学んだ彼らは、仏教寺院と古い名門の貴族が土地を独り占めにしている高麗の仕組みを壊そうとした。1390年には古い土地の帳簿を都で焼き払い、その火は何日も消えなかったという。翌1391年、科田法を定めて、官僚に土地を分け直す新しい仕組みを作った。

だが、高麗を守ろうとする者もいた。学者として名高い鄭夢周は、改革には賛成しても、王朝を替えることには反対した。1392年4月、李成桂の五男の李芳遠は、開京の善竹橋で鄭夢周を暗殺させた。橋の石には、今も鄭夢周の血の跡が残ると言い伝えられている。この年の7月、李成桂は恭譲王を退けて、自ら王の位に就いた。50代の後半だった。474年続いた高麗は、ここで終わった(朝鮮王朝の成立)。

新しい国の名は、明に選んでもらった。李成桂は、檀君や箕子の昔の国にちなむ「朝鮮」と、自分の故郷の古い名「和寧」の二つを明に示し、明の洪武帝は「朝鮮」を選んだ。大国の承認を国の正しさの根拠にするという、その後の朝鮮王朝の外交の形が、ここから始まる。1394年には都を漢陽(いまのソウル)に移し、翌年には王宮の景福宮が建てられた。都の設計も、国の制度も、鄭道伝が中心になって作った。鄭道伝は『朝鮮経国典』を著して、儒教の理念にもとづく国の骨組みを示し、仏教を退けた。

国を作った後の李成桂を苦しめたのは、自分の息子たちだった。李成桂には最初の妻との間に6人の息子がいた。その一人の李芳遠は、鄭夢周を除いて建国に大きく働いた。ところが李成桂は、二番目の妻の神徳王后が生んだ末っ子の李芳碩を世継ぎに立てた。鄭道伝もこれを支えた。1398年、李芳遠は兵を挙げて鄭道伝を殺し、異母弟の芳碩と芳蕃も殺した(第一次王子の乱)。病の床にあった李成桂は、怒りと失意のなかで退位し、次男の芳果(定宗)が位を継いだ。1400年には、四男の芳幹が芳遠と争って敗れ(第二次王子の乱)、定宗は弟の芳遠に位を譲った。三代目の王、太宗である。

退位した李成桂は、故郷に近い咸興に移ってしまい、都に戻ろうとしなかった。太宗が父を呼び戻そうと送った使者を、李成桂がことごとく殺したため、「咸興差使」という言葉が、行ったきり戻らない使いのたとえになったと言われる。ただしこれは後に作られた話の色が濃い。1402年に東北で起きた趙思義の反乱を、李成桂が陰で支えていたとする見方もある。やがて李成桂は都に戻り、仏教に心を寄せて晩年を過ごした。

1408年、数えで74歳で世を去った。陵墓は都の東の健元陵である。故郷を懐かしんで、墓には咸興の葦を植えるよう遺言したと伝えられ、今も墓の上には芝ではなく葦が茂っている。

李成桂が建てた国は、1910年に日本に併合されるまで500年あまり続いた。孫の世宗の時代には文字ハングルが作られ、朱子学を柱にした両班の社会が半島に根づいた(朝鮮王朝)。今、半島の北の国は「朝鮮」を名乗り、南の国は古代の三韓に由来する「韓」を名乗っている。李成桂が明に選ばせた名は、600年たった今も、半島の片方の国の名として生きている。

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