できごと

威化島回軍

Wihwado Retreat
AD1388年5月
重要度 4
シベリアの諸集団明チャガタイ汗国チベットヒンドゥーの小王国群デリー・スルタン朝パガン朝スコータイ朝日本クメール帝国高麗大越アユタヤ朝大越オリッサアイヌモシリAD1388年5月威化島
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1388年5月の版図を描いています(16勢力)。

概要

明が鉄嶺以北を求め、高麗は遼東を攻めることにした。将軍李成桂は鴨緑江の中州で雨に降られて「小が大に逆らうな」と四つの理由を挙げ、軍を返して開城を取った。4年後に高麗を終わらせた。朝鮮王朝はこの日から始まる。

場所

威化島
40.10°N 124.45°E · 北朝鮮・鴨緑江

関わった人(1)

李成桂AD1335年10月27日–AD1408年6月18日 · 将軍

本文

14世紀の後半、東アジアの秩序は大きく揺れていた。中国では1368年に明の成立が起き、モンゴルの元は北へ退いて北元となった。朝鮮半島の高麗は、長く元に従ってきたが、恭愍王のころから元の勢力を退け、元が直接治めていた東北の地を取り戻していた。宮廷の中では、元に近い勢力と明に近い勢力が争い、沿岸は倭寇の襲撃に繰り返し荒らされていた。倭寇との戦いで名を上げたのが、東北の出身の武将李成桂である。

1388年、明は高麗に、鉄嶺より北の土地はもと元のものだったから明が治める、と通告し、鉄嶺衛という軍の拠点を置こうとした。高麗が元から取り戻したばかりの土地である。高麗の王・禑王と、宮廷の実力者で老将の崔瑩は、これに激しく反発し、明の遼東を攻めることを決めた。

李成桂(朝鮮太祖)の肖像
李成桂Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

李成桂は反対した。小国が大国に逆らうのはよくない。夏に兵を動かすのはよくない。国じゅうの兵を遠くへ出せば、倭寇がその隙を突く。暑く雨の多い時期で、弓の膠がゆるみ、兵が病に倒れる。この「四不可」を述べたが、聞き入れられなかった。4月、崔瑩が全軍を統べる八道都統使となり、曹敏修が左軍、李成桂が右軍を率いて、兵と人夫あわせて5万ほどの軍が平壌を出た。崔瑩は王とともに平壌にとどまった。

5月、軍は鴨緑江に着き、川の中州の威化島に渡った。だが長雨で川は増水し、向こう岸へ渡れない。数十日とどまるうちに兵糧は乏しくなり、逃げ出す兵が出始めた。李成桂と曹敏修は、軍を返すことを王に願い出たが、許されなかった。5月22日(陰暦)、二人は命令に背いて軍を返した。これが「威化島回軍」である。上は王を正しく導き、下は民を安んじるためだ、と李成桂は兵に語ったと伝えられる。同じころ、明の軍は北元の本拠を攻めて大勝しており、もし遼東に攻め込んでいれば、高麗は手強い相手と正面から向き合うことになっていた。

衛星写真中央の新義州の市街地の上流(右上)にあるのが威化島。
衛星写真中央の新義州の市街地の上流(右上)にあるのが威化島。Wikimedia Commons Public domain

引き返した軍は都の開京に迫り、崔瑩は手勢で防いだが敗れて捕らえられた。流罪の後、その年の12月に処刑された。73歳だった。崔瑩は、自分に少しでも欲の心があったなら墓に草が生えるだろう、そうでなければ草は生えまい、と言い残し、実際にその墓には長く草が生えなかったと伝えられる。清廉な忠臣として、今も韓国で敬われている。

禑王は江華島に流され、9歳の子の昌王が立てられた。翌1389年、李成桂の一派は、禑王と昌王は王氏の血ではなく、かつて権勢をふるった僧辛旽の子孫だと言い立てて昌王を廃し、恭譲王を立てた。偽りを廃して真の王を立てるという意味で「廃仮立真」と称した。禑王と昌王は殺された。回軍をともにした曹敏修も、昌王を立てたことで退けられた。1391年には科田法が定められ、旧い有力者の土地を取り上げて、新しい官僚たちに分け与えた。新しい王朝を支える財政の土台が、こうして先に作られた。

鴨緑江クルーズ船より威化島を望む
鴨緑江クルーズ船より威化島を望むWikimedia Commons Public domain

最後まで高麗を守ろうとしたのは、学者で政治家の鄭夢周だった。彼は改革には協力したが、王朝を替えることには反対した。1392年4月、開京の善竹橋で、李成桂の五男の李芳遠が差し向けた者たちに殺された。橋の石に残る赤いしみは彼の血だと言い伝えられている。その年の7月、李成桂は恭譲王から位を譲られて王となり、474年続いた高麗は終わった。新しい国は明に国号を伺い、翌年「朝鮮」と名乗る(朝鮮王朝の成立)。

回軍は、高麗の側から見れば王命に背いた反逆であり、朝鮮の側から見れば建国の第一歩だった。遼東を攻めていたらどうなったかについては、明が北元と戦っていた隙を突けば勝ち目があったという見方と、無謀な戦いで国を滅ぼしたという見方がある。確かなのは、「小が大に逆らわない」という李成桂の判断が、その後500年の朝鮮の外交の基本、つまり大国に仕えて国を守る「事大」の方針になったことである。文禄・慶長の役では明に救いを求め、丙子胡乱では清に屈した。威化島は今、北朝鮮の側にある鴨緑江の中州で、対岸の中国の丹東から望むことができる。

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