大祚栄
概要
高句麗の遺民を率いて唐の追撃を振り切り、満洲東部に国を建てた。唐から渤海郡王に封じられ、その名が国号になる。
所属
渤海関わったできごと(1)
渤海の建国AD698年 · 建国本文
高句麗の遺民である。生年は分からない。

668年、高句麗の滅亡で、唐と新羅の連合軍は平壌を落とした。唐は高句麗の人々を大量に故地から移し、その一部を遼西の営州(いまの遼寧省朝陽)に住まわせた。営州は、唐が北東の諸民族を見張る前線の町で、契丹や靺鞨の人々も集められていた。大祚栄の父・乞乞仲象もそこにいた。
出自は史書によって書き方が違う。『旧唐書』は大祚栄を「高麗の別種」とし、『新唐書』は高句麗に従っていた粟末靺鞨の人とする。高句麗人か靺鞨人か、いまも韓国と中国で言い分が違い、北朝鮮・韓国・中国のどの歴史に属する国かという争いにまでつながっている。高句麗の旧臣と靺鞨の諸部が混じり合った集団だった、と見るのが穏当なところだろう。手がかりの一つは、息子の代に渤海が日本へ送った国書である。そこには、高句麗の旧地を回復し、扶余の遺風を保っている、という意味の一文がある。渤海の王家自身が、高句麗を継ぐ者として名乗っていたことになる。日本の朝廷も、渤海の王をしばしば「高麗国王」と書いた。
696年、営州で契丹の李尽忠と孫万栄が反乱を起こした。唐は則天武后が周と国号を改めていた時期で、反乱の鎮圧に手間取った。この混乱に乗じて、乞乞仲象と靺鞨の首長・乞四比羽はそれぞれの民を連れて東へ逃れた。則天武后は二人に爵位を与えて懐柔しようとしたが、乞四比羽は受けず、討伐に来た将軍・李楷固に殺された。乞乞仲象もこの頃に死んだらしい。
残った人々をまとめたのが大祚栄だった。李楷固の追撃を受けたが、天門嶺でこれを打ち破った。李楷固はもとは反乱側にいて唐(周)に降った契丹の将で、その軍を破ったことは、遺民たちの結束を固めた。唐は契丹と、北で勢いを取り戻した突厥の両方に手を焼いていて、それ以上は追えなかった。大祚栄は東へ進み、東牟山(いまの吉林省敦化)に城を築いた。698年のことで、これが渤海の建国とされる。
東牟山は、敦化市の西にある城山子山城にあてる説が有力で、山の上には石と土を積んだ城壁の跡が残る。近くの六頂山には渤海の初期の王族の墓が並び、1949年には大祚栄の曾孫にあたる貞恵公主の墓誌がそこから見つかった。漢文で書かれた墓誌は、渤海の王族が唐風の教養を身につけていたことを伝えている。
初め震国王と称した。唐と対立したまま、北の突厥に使いを送り、新羅とも通じた。孤立を避けるための外交だった。東牟山のまわりには高句麗の遺民や靺鞨の諸部が次々に集まった。建国の年を698年とするのが通説だが、史書の書き方の違いから699年とする見方もある。705年、唐の中宗が使者を送ってくると、大祚栄は息子を唐の都へ送り、関係を改めた。
713年、玄宗の使者・崔忻が来て、大祚栄を渤海郡王に封じた。以後、国号は渤海になる。崔忻が帰り道に旅順で井戸を掘り、そのことを刻んだ石碑(鴻臚井の碑)は、日露戦争の後に日本へ運ばれ、いまも皇居の中にある。冊封の年を伝える同時代の数少ない遺物である。
719年に死んで、高王と諡される。唐は使者を送って弔った。跡を継いだ息子の大武芸は、黒水靺鞨をめぐって唐と争い、山東の登州を海から襲った。727年には日本に最初の使節を送っている。渤海と日本の往来は、その後200年近く続いた。
渤海は、9世紀に唐から「海東の盛国」と呼ばれるほど栄えた。高句麗の旧領の北半分と満洲東部を押さえ、五京を置き、唐の制度をまねた官制を整えた。だが926年、耶律阿保機の率いる契丹に都を落とされ、渤海の滅亡を迎える。
大祚栄について確かなことは、ほとんど中国側の史書からしか分からない。渤海自身の記録はほとんど残っていない。逃げ延びた人々を束ね、二つの大国のあいだで国を立てた人物だったことは確かでも、どんな顔をして何を語ったのかは見えない。韓国では高句麗を継いだ国の祖として、中国では唐の地方政権の創始者として、同じ人物が別々の物語に置かれている。