韓国併合
概要
大韓帝国が日本に併合され、35年続いた。言語や姓名の政策を含め、いまも両国の関係の根に残る。
場所
37.57°N 126.98°E · 大韓民国・ソウル(朝鮮王朝の都)
本文
19世紀の後半、朝鮮王朝は国を閉ざして外国との交わりを拒んでいた。明治維新を経た日本は、1875年に江華島の近くで軍艦を使って衝突を起こし、翌年、朝鮮に不平等な条約を結ばせて港を開かせた(江華島条約)。それから朝鮮は、清と日本、のちにはロシアが勢力を争う場になる。宮廷の中でも、清に頼る勢力、日本にならって改革を急ぐ勢力、ロシアに近づく勢力が入れ替わり、そのたびに外国の軍が動いた。
1894年、東学という新しい宗教の信徒を中心に農民が蜂起すると、清と日本がともに兵を送り、日清戦争になった。勝った日本は、清に朝鮮が独立国であることを認めさせ、清の影響を朝鮮から追い払った。だが、朝鮮の宮廷はロシアに近づいた。1895年、日本の公使らが王宮に押し入り、ロシアと結ぶ中心人物とみられていた王妃を殺害した(乙未事変)。殺されたのは閔妃、のちに明成皇后と呼ばれる人である(閔妃(明成皇后))。1897年、朝鮮は国号を大韓帝国と改め、国王は皇帝を名乗った。どの国にも従属しない独立国であることを示すためだった。

日露戦争の後、併合は段階を追って進んだ。日露戦争が始まった1904年、日本は大韓帝国に協約を結ばせ、日本が推す顧問を財政と外交に置かせた。1905年、ポーツマス条約でロシアが日本の韓国での優越を認めると、その年の11月、日本は軍で王宮を囲むなかで第二次日韓協約を結ばせ、外交権を奪って保護国とした。漢城(いまのソウル)には統監府が置かれ、初代の統監には伊藤博文が就いた。この協約が皇帝の正式な承認を経ていないとして、韓国では当時から無効が主張されてきた。
1907年、皇帝高宗は、オランダのハーグで開かれていた万国平和会議に密使を送り、協約の不当を訴えようとした。列国は取り合わなかった。日本はこれを理由に高宗を退位させ、さらに協約を結ばせて内政の実権も握った。同じ年、韓国の軍隊を解散させた。その兵が、各地で起きていた義兵闘争に加わる。義兵は山にこもって日本軍や警察と戦い、日本側の記録でも、数年のあいだに1万数千人の義兵が殺されたとされる。
![ジョルジュ・ビゴーの風刺画「魚釣り遊び」(Une partie de pêche) [注釈 2]『トバエ』1号 (1887.2.15) 魚(朝鮮)を釣り上げようとする日本と中国(清)、横どりをたくらむロシア。](https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/3/3e/Une-Partie-De-Peche-Rus-Jpn-Qing-Dispute-Korea-Feb-15-1887.png/960px-Une-Partie-De-Peche-Rus-Jpn-Qing-Dispute-Korea-Feb-15-1887.png)
1909年10月、伊藤博文が満洲のハルビン駅で、韓国の独立運動家安重根に撃たれて死んだ。伊藤は統監を退いた後だった。安重根は翌年3月に旅順で処刑された。日本では伊藤を殺した暴漢として、韓国では民族の英雄として記憶され、その評価はいまも両国で正反対になっている。
翌1910年8月22日、韓国併合条約が結ばれ、29日に公布された。調印したのは、統監の寺内正毅と、韓国の首相李完用だった。条約は、韓国の皇帝が統治権を日本の天皇に「譲る」という形をとった。大韓帝国という国はなくなり、その地は「朝鮮」と呼ばれ、天皇に直属する朝鮮総督が治めることになった。初代の総督は寺内である。

35年続いた。
はじめの10年は、憲兵が警察を兼ね、言論や集会を厳しく取り締まる統治だった。土地調査事業では、土地の持ち主を確定するために申告制を採った。申告の手続きを知らなかったり、共同で使っていた土地の権利を示せなかったりした農民が土地を失い、その土地が総督府や日本人の手に渡った例が多いとされてきた。近年は、奪われた土地の規模は従来言われたほど大きくなかったとする研究もあり、評価は分かれている。
1919年3月1日、独立を宣言する文書がソウルで読み上げられ、独立万歳を叫ぶ運動が朝鮮全土に広がった(三・一独立運動)。運動は武力で鎮められ、多くの死者と逮捕者を出したが、日本はその後、統治のやり方をいくらか緩め、朝鮮語の新聞の発行などを認めた。同じ年、中国の上海には大韓民国臨時政府が作られている。

1930年代の後半、日本が中国との全面戦争に入ると、統治は再び締め付けを強めた。朝鮮の人々を天皇に忠実な「皇国臣民」にするという方針のもと、神社への参拝が求められ、学校では日本語が教えられ、朝鮮語の授業は減らされ、やがて事実上なくなった。1940年からは、朝鮮式の姓とは別に日本式の氏を名乗らせる創氏改名が実施された。戦争が長引くと、朝鮮の人々は日本内地の炭鉱や工場へ働き手として動員され、最後には徴兵も行われた。
1945年8月、日本の敗戦で、朝鮮は日本の支配から解放された。韓国ではこの日を「光復節」として祝う。だが、解放された半島はすぐに米ソに分けて占領され、1948年に南北二つの国家が生まれ、1950年からの戦争へ進んでいく。

日本と韓国が国交を結んだのは1965年である(日韓基本条約)。その条約は、併合条約などは「もはや無効」であると確認した。だが、その意味の受け止め方は分かれた。日本は、当時は有効だった条約が今は効力を失った、と解釈した。韓国は、はじめから無効だった、と解釈した。一つの条文を、両国は別々に読んでいる。
その政策の一つ一つが、いまも両国の関係の根に残っている。労働者の動員をめぐる裁判、慰安婦をめぐる問題、教科書の記述。歴史認識をめぐる対立の、最も大きな部分がここから来ている。