崔忠献
概要
武臣政変の時は若い武官。1196年、弟と共に李義旼を殺した。明宗を廃し、神宗、熙宗、康宗、高宗を立てた。「封事十条」で改革を言い、しなかった。教定都監。私兵。息子崔瑀、孫、曾孫。62年。1258年、曾孫が殺されて終わった。
所属
高麗関わったできごと(2)
高麗の武臣政変AD1170年 · 26年後に握った崔氏政権の始まりAD1196年 · 握った本文
1149年、高麗の都開京に近い牛峰の武官の家に生まれた。父の崔元浩は上将軍まで昇った武人である。崔忠献は父の功によって官に就き、武官として歩み始めた。

彼が20歳を過ぎた1170年、高麗では武官たちが文官を大量に殺して政権を奪った(高麗の武臣政変)。それまでの高麗は、科挙を通った文官が政治を握り、武官は見下されていた。宴の席で若い文官が老将の髭を燭台の火で焼いたという話が、その屈辱を象徴する。政変のあと、王は名ばかりとなり、鄭仲夫、慶大升、李義旼と、武人の実力者が殺し合いながら次々に権力を握った。崔忠献は1174年、西京(平壌)で起きた趙位寵の反乱の鎮圧で手柄を立てたが、その後20年ほど目立つ地位には上がれなかった。
1196年、きっかけはささいなことだった。時の権力者李義旼の息子李至栄が、崔忠献の弟崔忠粋の飼っていた鳩を奪った。怒った崔忠粋は兄に、李義旼の一族を倒そうと持ちかけた。4月、李義旼が都の外の弥陀山の別荘に出かけたところを、兄弟は待ち伏せて殺し、都に戻って一族と与党を一掃した。下層の出身で、農民や奴婢の上に立つ武人だった李義旼に対し、崔忠献は武官の名家の出だった。
政権を握った崔忠献は、明宗に「封事十条」を差し出した。王は正しい宮殿に戻るべきこと、余分な官職を減らすこと、権力者が奪った土地を元の持ち主に返すこと、税の取り立てを正すこと、僧が宮廷に出入りして政治に口を出すのをやめさせること、などである。武人の世を正す改革の約束に見えたが、ほとんど実行されなかった。翌1197年、彼は明宗を廃して離宮に移し、その弟を神宗として立てた。
身内にも容赦はなかった。弟の崔忠粋が自分の娘を太子の妃にしようとすると、崔忠献は王家と直接結ぶことの危うさを説いて止めようとし、聞かなかった弟と争いになって、兵を交えて弟を殺した。
1198年、都で彼自身の家の奴婢であった万積が、仲間の奴婢たちに蜂起を呼びかけた。武人政変以来、身分の低い者が高位に昇るのを見てきた。王侯将相にどうして種があろうか、と万積は説き、主人を殺して奴婢の籍を焼こうとした。計画は密告で漏れ、崔忠献は捕らえた百人ほどを川に沈めたという。武人政権の時代は、各地で農民と奴婢の反乱が相次いだ時代でもあった。
崔忠献は、それまでの武人の実力者たちとは違うやり方で権力を固めた。腕の立つ武士を集めて都房という私兵の組織を作り、自分と一族の身辺を守らせた。1209年、自分を狙う陰謀が露見したのをきっかけに教定都監という役所を設け、その長として人事や監察、徴税まで取り仕切った。王の朝廷とは別に、崔氏の家の役所が国を動かす仕組みである。1206年には晋康侯に封じられ、自分の府を開いた。1211年、熙宗が宦官と僧を使って彼の暗殺を企てると、熙宗を廃して江華島に流し、康宗、続いて高宗を立てた。生涯に明宗と熙宗の二人の王を廃し、神宗、熙宗、康宗、高宗と、四人の王を自分の手で立てた。
それでも、王位そのものを奪うことはしなかった。王氏の王は残し、その名のもとで実権だけを握った。1219年、崔忠献は数えで71歳で死んだ。病の床で、息子たちの争いを恐れていたが、権力は子の崔瑀(のち崔怡と改名)にそのまま受け継がれた。
崔瑀の時代、北からモンゴルが攻めてきた。1231年に侵入が始まると、崔瑀は翌年、王と朝廷を連れて都を江華島に移し、海を盾に抵抗を続けた。仏の力で国を守ろうと、8万枚を超える版木に仏典を刻む大事業が始められたのもこの時代である(高麗版大蔵経)。崔氏の権力は、崔瑀の子の崔沆、孫の崔竩へと4代にわたって続いた(崔氏政権の始まり)。1258年、崔竩が家臣の金俊らに殺され、崔氏の政権は62年で終わった。翌年、高麗はモンゴルに和を請う(モンゴル帝国の拡大)。

武人が王を残したまま実権を握り、家の役所と私兵で国を治める。崔氏政権は、ほぼ同じ時代に日本で開かれた武家政権と比べられることがある(鎌倉幕府の成立)。ただ、鎌倉の幕府が都から離れた東国に別の政府を作ったのに対し、崔氏は都の中で王の朝廷を乗っ取るように支配した、という違いを強調する研究者も多い。朝鮮王朝の時代に編まれた『高麗史』は、崔忠献を叛逆伝に収めた。王を替え続けた権臣としての評価が、その位置に表れている。