人物

金大中

Kim Dae-jung
AD1924年1月6日 – AD2009年8月18日(享年85)
大韓民国重要度 4

概要

全羅道の島の生まれ。1971年に朴正熙と争って45%。1973年に東京のホテルからKCIAに拉致された。1980年に死刑判決。1997年、四度目で大統領。通貨危機を乗り越え、2000年に平壌で金正日と会い、ノーベル平和賞。

関わったできごと(1)

朝鮮戦争1950年 · のちの大統領

本文

金大中は1924年、朝鮮半島の南西の端、全羅南道の沖に浮かぶ荷衣島に、農家の子として生まれた。朝鮮が日本の植民地だった時代である。少年のころ一家で港町の木浦に移り、木浦の商業学校を出て、日本人が営む海運会社に勤めた。1945年の解放後は、自ら海運の事業を起こして実業家となった。

1950年に朝鮮戦争が始まると、木浦は北の軍に占領され、金大中は捕らえられて刑務所に入れられた。北の軍が退くときに多くの囚人が殺されたが、彼は脱出して生き延びた。この戦争の体験が、彼を政治へ向かわせたとされる。

朝鮮戦争に関わる図版:Chosin
朝鮮戦争Wikimedia Commons Photo by Corporal Peter McDonald, USMC · Public domain

政治家としての出発は、つまずきの連続だった。1954年から国会議員の選挙に何度も挑んで落ち続け、1961年5月、江原道の麟蹄で行われた補欠選挙でようやく当選した。ところがその直後、朴正熙らの軍人がクーデターを起こして国会を解散させ、金大中は一度も議場に立てないまま議席を失った。1963年に木浦から当選して国会に入ると、雄弁で知られる野党の若手として頭角を現した。

1971年の大統領選挙で、47歳の金大中は野党新民党の候補として、現職の朴正熙に挑んだ。結果は朴正熙の53.2%に対し45.3%。敗れはしたが、政府があらゆる手段で選挙に介入した中での健闘だった。選挙戦で彼は、朴正熙が勝てば選挙のない終身の総統の時代が来ると訴えた。翌1972年、朴正熙は非常戒厳を敷いて憲法を改め、大統領を国民が直接選べない「維新体制」をつくった。選挙のすぐあと、金大中は乗っていた車にトラックが突っ込む事故に遭い、股関節を痛めた。以後、生涯にわたって足を引きずって歩くことになる。彼はこれを、自分を狙った暗殺の企てだったと語っている。

初当選時の新聞記事(1961年5月15日 東亜日報)
初当選時の新聞記事(1961年5月15日 東亜日報)Wikimedia Commons 東亜日報 · Public domain

維新体制が敷かれたとき、金大中は日本にいた。彼は日本とアメリカを行き来しながら朴政権を批判する運動を続けた。1973年8月8日、東京・九段のホテルグランドパレスで、韓国中央情報部(KCIA)の要員たちに拉致された。船に乗せられて海へ運ばれ、本人の証言では、重りをつけられて海に投げこまれる寸前だったが、飛行機が近づいてきて、その後は殺されずにすんだという。5日後、彼はソウルの自宅近くで解放された。日本の国内で起きたこの事件は、日本の主権を侵すものとして大きな外交問題になったが、真相の追及は政治決着で幕を引かれた。

その後も金大中は弾圧を受け続けた。1976年には、民主化を求める「民主救国宣言」に名を連ねて投獄された。1979年に朴正熙が暗殺されると、いったんは「ソウルの春」と呼ばれる自由な空気が生まれたが、全斗煥の率いる軍人たちが権力を握った。1980年5月17日、金大中は逮捕され、その翌日に全羅南道の光州で市民の抗議が始まると、軍はこれを武力で押しつぶした(光州民主化運動)。軍事政権は金大中を、光州の騒乱を陰で操った内乱の首謀者として裁き、同年9月、軍法会議は死刑を言い渡した。

金大中と金泳三(1960年)
金大中と金泳三(1960年)Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

アメリカや日本の政府、ローマ教皇などから助命を求める声が相次ぎ、刑は無期懲役に減じられた。1982年の暮れには、治療を名目にアメリカへ出国することを許された。1985年に帰国し、自宅に軟禁されながらも、野党の指導者として活動を続けた。

1987年、学生と市民の大規模な抗議によって、大統領を国民の直接選挙で選ぶ制度が取り戻された(六月民主抗争)。だが、民主化運動の二人の指導者、金大中と金泳三は候補を一本化できず、ともに立候補して票を割った。その結果、軍出身の盧泰愚が当選した。1992年の選挙では金泳三に敗れ、金大中は政界からの引退を表明してイギリスへ渡った。しかし1995年に政界へ戻り、新しい党を作った。

金大中を偲ぶ路傍の追悼碑
金大中を偲ぶ路傍の追悼碑Wikimedia Commons raYmon · CC BY 2.0

1997年12月、四度目の挑戦で、金大中はついに大統領に選ばれた。保守の金鍾泌と手を組み、与党の李会昌を、得票率40.3%対38.7%、およそ39万票の差でかわしての勝利だった。選挙で野党の候補が勝ち、政権が平和のうちに交代したのは、韓国の憲政史上初めてのことだった。全羅道の出身者が大統領になったことも、長く地域の差別に苦しんできた人々にとって大きな意味を持った。

彼が引き継いだのは、アジア通貨危機で国の財布が空になりかけた韓国だった。政府はIMF(国際通貨基金)から巨額の支援を受け、その条件として大企業の整理や金融の立て直しを進めた。多くの人が職を失う痛みを伴ったが、国民が自宅の金の装飾品を持ち寄って国に差し出す運動も広がり、経済は数年のうちに持ち直した。1998年には、日本の小渕恵三首相と、過去の植民地支配への反省と未来志向の関係をうたった共同宣言を交わし、それまで制限してきた日本の大衆文化の受け入れを段階的に始めた。

アジア通貨危機に関わる図版:Asienkrise-accessible
アジア通貨危機Wikimedia Commons Original: Max Roser, Low vision version: Angkun-ane · CC BY 4.0

北朝鮮に対しては、圧力よりも交流と援助で変化を促す「太陽政策」を掲げた。2000年6月13日、金大中は平壌の空港に降り立ち、金正日総書記と抱き合った。南北の首脳が会ったのは、朝鮮半島が分断されてから初めてのことだった。二人は離散家族の再会や経済協力を約束する共同宣言に署名した。同じ年の秋、金大中はノーベル平和賞の受賞が決まった。

ただ、評価は分かれる。首脳会談の前に、現代グループなどから北朝鮮へおよそ5億ドルが秘密裏に送られていたことが、退任後の特別検察の捜査で明らかになり、側近たちが有罪となった。太陽政策は北の独裁体制を助けただけで、核開発を止められなかったという批判がある一方、南北の緊張を和らげ、交流の道を開いたと評価する声もある。

2003年2月に退任したあとも、金大中は南北の和解を訴え続けた。2009年5月、後継の大統領だった盧武鉉が自ら命を絶つと、金大中は、自分の体の半分が崩れたような気持ちだ、と語った。その3か月後の2009年8月18日、肺炎で入院したのち、85歳で亡くなった。葬儀は国葬として営まれ、国立ソウル顕忠院に葬られた。死刑の判決を受け、拉致され、何度も死の淵に立たされた人が、大統領として民主主義の定着と南北の対話に足跡を残したことは、現代の韓国の歩みを象徴している(物語「朝鮮半島」)。

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