檀君神話(伝承)
概要
天帝の子桓雄が太白山に降り、熊が21日洞窟で蓬と蒜を食べて女になり、その子が檀君。平壌に都して1500年治めた。13世紀の『三国遺事』が最初に書いた。モンゴルに攻められていた高麗が、中国より古い自分の始まりを求めた。10月3日は開天節。
場所
39.04°N 125.76°E · 朝鮮民主主義人民共和国
本文
檀君の物語を最初に書き記したのは、13世紀の終わり、1280年代に高麗の僧一然がまとめた『三国遺事』である。高句麗・百済・新羅の三国の正史として、すでに1145年に『三国史記』が編まれていたが、そこには檀君の名は出てこない。『三国遺事』は、正史が取り上げなかった伝説や仏教の霊験譚を集めた書物で、その冒頭の「古朝鮮」の条に、檀君の話が置かれている。一然は、中国の『魏書』と、朝鮮の『古記』という書物を引いていると書くが、いま伝わる『魏書』にはこの話は見えず、『古記』も失われている。
物語はこうである。天上の帝、桓因の庶子に桓雄がいて、しきりに天下に心を寄せ、人の世を求めていた。父はその心を知り、下界の三危山と太伯山を見下ろして、そこなら人々を広く益することができると考え、天符印三つを与えて、地上を治めさせた。桓雄は三千の徒を率いて、太伯山の頂の神檀樹の下に降り、そこを神市と呼んだ。風伯、雨師、雲師を従え、穀物、命、病、刑罰、善悪など、人の世の三百六十余りのことを司って、世を治め、教え導いた。

そのころ、一頭の熊と一頭の虎が同じ洞穴に住み、人間になりたいと桓雄に願った。桓雄は、霊験のあるヨモギを一握りと、ニンニクを二十個与え、これを食べて百日のあいだ日の光を見なければ、人の姿になれるだろうと言った。熊と虎はそれを食べて籠もったが、虎は耐えきれずに出ていった。熊は言いつけを守り、二十一日目に女の姿になった。熊女は結婚する相手がいなかったので、いつも神檀樹の下で子を授かりたいと祈った。桓雄はかりに人の姿になって熊女と結ばれ、生まれた子を檀君王倹といった。
檀君は、中国の伝説の聖王である堯が即位して50年目に、平壌に都を置いて、国を朝鮮と名づけた。のちに都を阿斯達に移し、1500年のあいだ国を治めた。周の武王が殷の王族の箕子を朝鮮に封じると、檀君は都を移し、のちに阿斯達に戻って隠れ、山の神になった。寿命は1908歳だったという。同じ時代、高麗の李承休が著した『帝王韻紀』にも、細部の違う檀君の物語が記されている。
この物語が書き留められた時代は、高麗にとって苦難の時代だった。1231年から、モンゴル帝国の軍が繰り返し高麗に攻め込み(モンゴル帝国の拡大)、高麗の朝廷は都を江華島に移して30年近く抵抗を続けた。国土は荒らされ、人々は殺され、連れ去られた。仏の力で国を守ろうと大蔵経の版木が彫られたのもこの時期である(高麗版大蔵経)。やがて高麗はモンゴルの元に従い、王は元の皇女を妃に迎えるようになる。一然が『三国遺事』を編んだのは、その元の支配の下でだった。中国の聖王の堯と同じ時代に、朝鮮にも天から降った神の子孫が国を建てていた。自分たちの国の始まりを、中国と肩を並べるほど古い時代に置くこの物語には、異民族の支配の下で、自分たちが何者であるかを確かめようとする思いがこめられていた、とみる研究者が多い。

檀君の即位の年を紀元前2333年とするのは、15世紀の朝鮮王朝で編まれた歴史書『東国通鑑』の計算によるもので、『三国遺事』そのものの年代とは少しずれがある。朝鮮王朝は檀君を国の始祖として尊び、平壌に檀君をまつる廟を設けた。
20世紀に入ると、檀君は民族の象徴として新たな意味を持つようになる。日本の支配が強まるなか、1909年、羅喆は檀君を信仰の中心に置く大倧教を開いた。翌1910年、韓国併合によって大韓帝国は滅びる。1919年の三・一独立運動で読み上げられた独立宣言書の日付は、「朝鮮建国四千二百五十二年」と、檀君の建国から数えた年で記されていた。独立運動を担った人々にとって、檀君は、国を失っても失われない民族のしるしだった。

1948年に建国した大韓民国は、檀君の建国から数える「檀君紀元」を公式の年号として用い、1962年に西暦に切り替えるまで使い続けた。檀君が国を開いたとされる10月3日は「開天節」として祝日になっている。北朝鮮では、1993年に平壌の近くで檀君の墓を発掘し、5000年前の檀君夫妻の骨を見つけたと発表して、巨大な石の陵を築いた。その主張は、韓国を含む外の研究者からは受け入れられていない。
歴史として見れば、檀君の物語は神話である。天から降りた神の子と、地上の熊から生まれた女が結ばれて始祖が生まれるという筋は、熊を祖先や守り神としてあがめた北方の狩猟の民の信仰と、天を尊ぶ遊牧の民の信仰が重なったものと読まれることが多い。歴史上の古朝鮮の姿は、のちの衛満朝鮮のように、中国の史書を通じてようやく見えてくる。それでも、韓国でも北朝鮮でも、人々は自分たちを「檀君の子孫」と呼び、新羅の建国(伝承)や高句麗の建国(伝承)の物語よりもさらに古く、民族全体の始まりとして檀君を語り続けている。