三・一独立運動

概要
各地で独立を求める非暴力の運動が起き、厳しく弾圧された。同じ年、インドでもガンディーが動きはじめる。
場所
37.57°N 126.98°E · 大韓民国・ソウル(朝鮮王朝の都)
本文
1919年3月1日の午後、ソウル(当時の名は京城)の中心にあるパゴダ公園(いまのタプコル公園)に集まった学生と市民の前で、独立宣言書が読み上げられた。人々は「独立万歳」を叫んで街へ出た。同じ日、平壌など各地の都市でも宣言が読まれている。
朝鮮は1910年に日本に併合されていた(韓国併合)。朝鮮総督府は憲兵が警察を兼ねる体制を敷き、集会や言論を厳しく制限した。土地の所有を届け出させる調査事業では、届け出の手続きを知らない農民が土地を失うこともあった。この時期の統治は、後に「武断政治」と呼ばれる。
1919年の初め、二つの出来事が重なった。一つは、第一次世界大戦の講和にあたってアメリカ大統領ウッドロウ・ウィルソンが掲げた民族自決の原則である(十四か条の平和原則)。それが自分たちにも及ぶと期待された。もう一つは、1月に元の国王・高宗が急死したことだった。毒殺されたという噂が広まり、3月3日に予定された葬儀には全国から人が集まることになっていた。2月8日には、東京にいた朝鮮人の留学生たちが独立宣言を発表している。

宣言書に名を連ねたのは、宗教界の指導者33人だった。天道教(東学の流れをくむ宗教)、キリスト教、仏教の人々で、宣言文は作家の崔南善が書いた。宣言は、日本を責めるよりも、新しい時代の正しさとして独立を説く調子で書かれ、最後に、秩序を守り、最後の一人まで正当な意思を表すことを求めている。非暴力の運動として計画されていた。
当日、33人の代表は公園には行かず、近くの料理店・泰和館で宣言を読み上げ、自ら警察に連絡して逮捕された。群衆が警察と衝突して暴動になるのを避けるためだったとされる。公園では学生たちが代わりに宣言を読んだ。

運動は数か月で朝鮮全土に広がった。都市から農村へ、学生から商人・労働者・農民へと参加者が増え、市場の立つ日に人が集まっては万歳を叫んだ。参加者は200万人を超えたとする記録がある。梨花学堂の女学生だった柳寛順は、故郷の天安で万歳運動を率いて捕らえられ、翌年獄中で亡くなった。いま韓国でもっともよく知られた運動の参加者である。
総督府は軍と警察で鎮圧した。死者の数は、独立運動家の朴殷植がまとめた記録では7500人を超え、総督府側の記録では数百人とされる。数字に大きな幅があり、確かなところは分かっていない。4月15日、京畿道の提岩里では、日本の軍隊が村の男たちを教会に集めて銃撃し、火を放った。この事件は、外国人宣教師が現地を訪れて写真と記録を残したことで、海外にも知られた。

運動は独立を実現しなかった。パリ講和会議は朝鮮の問題を取り上げなかった。民族自決の原則は、もともと敗戦国の領土について考えられたもので、戦勝国の日本の植民地には及ばなかった。
それでも統治の方針は変わった。新しく総督となった斎藤実は「文化政治」を掲げ、憲兵が警察を兼ねる体制をやめ、朝鮮語の新聞の発行を認めた。1920年に創刊された東亜日報と朝鮮日報は、いまも韓国の主要紙である。ただし警察官の数はかえって増え、取り締まりの網はむしろ細かくなったという見方もある。

もう一つの結果が、4月に上海で作られた大韓民国臨時政府である。各地の独立運動家が集まり、国の形を共和制とした。臨時政府は1945年の解放まで、中国の各地を移りながら活動を続けた。
同じ1919年の5月4日、中国でもパリ講和会議への抗議から学生の運動が起きた(五四運動)。インドではこの年、ガンディーが非暴力の抵抗運動を全国規模で始める。大戦の後に植民地の人々が声を上げた、その最初の波の一つが三・一運動だった。

いま3月1日は韓国の祝日「三一節」である。大韓民国の憲法の前文は、三・一運動によって建てられた臨時政府の法統を受け継ぐ、と書いている。独立は果たせなかった運動が、のちの国の起点として置かれている(物語「朝鮮半島」)。