人物

淵蓋蘇文

Yeon Gaesomun
? – AD666年
高句麗重要度 3

概要

642年、王と大臣百余人を殺して権力を取り、唐の太宗の親征を安市城ではね返した。五本の刀を帯びて歩き、人を踏み台にして馬に乗ったと唐の記録は言う。死ぬと三人の息子が争い、二年で国が滅んだ。

所属

高句麗

本文

淵蓋蘇文は、7世紀の高句麗で、クーデターによって国の実権を握った将軍である。中国史上屈指の名君とされる唐の太宗の大軍を退け、20年あまり唐と戦い続けた。朝鮮の『三国史記』では「泉蓋蘇文」と書かれる。唐の高祖李淵の「淵」の字を避けたためで、本来の姓は淵である。『日本書紀』は彼を「伊梨柯須弥(いりかすみ)」と記す。

生まれた年は分からない。『三国史記』によれば、彼は自分が水の中から生まれたと言って人々を惑わしたといい、姿は堂々として気性は豪放だった。父は高句麗の五つの部の一つを率いる長で、最高位の大対盧を務めた。父が死んで跡を継ごうとすると、国の人々はその荒々しい性格を嫌って反対した。蓋蘇文は頭を下げて詫び、もしふさわしくなければ退けてくれてかまわないと言って、ようやく職を継いだという。

そのころの高句麗は、隋の大軍を何度も退けた後だった(薩水の戦い)。隋が倒れて唐が起こると(唐の成立)、栄留王は唐に低姿勢をとり、国境に長大な城壁を築いて守りを固めた。蓋蘇文はその工事の監督を任されている。王と大臣たちは、力をつけていく彼を恐れ、除こうと相談した。642年、それを察した蓋蘇文は、軍の閲兵を口実に大臣たちを宴に招き、百人余りを殺した。そのまま宮殿に押し入って栄留王を殺し、王の甥を宝蔵王として立てた。自らは莫離支(まくりし)という新しい最高職に就き、軍事と政治のすべてを握った。

唐の史書は、彼の姿を恐ろしげに描く。いつも五本の刀を身につけ、左右の者は顔を上げて見ることもできなかった。馬に乗り降りするときは、貴族や武将を地面に伏せさせ、その背を踏み台にした。外出のときは兵を並べて道を開かせ、人々は谷や溝に逃げ込んだという。敵の側の記録で、誇張も含むとみるべきだが、彼が恐怖で人を従わせたことはうかがえる。

蓋蘇文は唐と正面から対立した。643年には唐に道教を求め、道士8人と『老子』を迎えている。仏教の勢力を抑え、唐の機嫌もとる手だったともいわれる。同じころ、高句麗は百済と組んで新羅を攻めていた。644年、唐の太宗は使者を送って新羅への攻撃をやめるよう命じたが、蓋蘇文は、隋の時代に新羅に奪われた500里の土地を返さないかぎりやめないと答え、使者を閉じ込めた。太宗は王を殺した臣下を討つという名目を掲げ、自ら遠征することを決めた。

645年、太宗の大軍は遼河を越え、蓋牟城、遼東城、白巌城を次々に落とした。救援に来た高句麗の大軍も破った。だが、遼東半島の付け根の小さな山城、安市城で進撃は止まった(安市城の戦い)。城兵は土の山を築いて攻める唐軍に粘り強く抵抗し、包囲はおよそ3か月に及んだ。寒さが迫り、兵糧も尽きかけた唐軍は、ついに撤退した。太宗は、諫めてくれた魏徴が生きていたらこの遠征はさせなかっただろうと嘆いたと伝えられる。安市城の城主の名は中国側の正史には残らず、後世の朝鮮で楊万春と伝えられるようになった。唐はその後も647年、648年と兵を送って高句麗を疲れさせたが、太宗は649年に死ぬとき、遠征をやめるよう遺言した。

同じころ、海の向こうの倭国でも、645年に蘇我入鹿が宮中で殺される政変が起きた(大化の改新)。唐の圧力が東アジアのあちこちで権力の集中を促した時代だった。

唐の高宗の代になると、唐は新羅と手を結び、660年に百済を滅ぼした(百済の滅亡)。高句麗は南北から挟まれる形になったが、蓋蘇文はなお持ちこたえた。662年には平壌に迫った唐軍を蛇水のほとりで破り、将軍の龐孝泰をその13人の息子とともに討ち取ったと伝えられる。663年に倭と百済の遺民の軍が唐と新羅に敗れた白村江の戦いのときも、高句麗は持ちこたえていた。

蓋蘇文は666年に死んだ(665年とする史料もある)。彼が一人で握っていた権力は、そのまま争いの種になった。長男の男生が莫離支を継いだが、地方を巡っているあいだに弟の男建と男産が都を押さえ、男生は国を追われて唐に降った。唐は男生を案内役にして攻め込み、668年、平壌は落ちて高句麗は滅んだ(高句麗の滅亡)。蓋蘇文の死からわずか2年だった。20世紀に洛陽の近くで、男生とその弟の男産の墓誌が見つかっている。兄弟はどちらも唐の高官として生涯を終え、墓誌は父を唐の側の言葉で記していた。

評価は時代によって大きく揺れた。唐と朝鮮王朝の儒学者たちは、彼を王を殺した逆臣、暴君として描いた。高句麗を滅ぼした原因を彼に求める見方も根強い。一方、日本の植民地支配のもとにあった20世紀初め、歴史家の申采浩は、彼を外敵に屈しなかった朝鮮史上第一の英雄として称えた。大国に立ち向かった独立の守り手か、恐怖で国を縛って滅亡の種をまいた独裁者か。二つの像は、いまも重ならないままである。

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