姜邯賛
概要
文科に首席で及第した文官。第二次契丹侵入で「開城を捨てて羅州へ」と王に勧め、第三次で71歳で上元帥。興化鎮で川を牛皮で堰いて切り、亀州で追った。星が落ちて生まれたと伝え、ソウルの落星垈がその場所。
所属
高麗関わったできごと(1)
亀州の戦いAD1019年 · 将軍本文
948年、衿州(いまのソウル特別市の冠岳区のあたり)に生まれた。生まれた夜、大きな星が家に落ちたという伝説があり、その場所は「落星垈(ナクソンデ)」と呼ばれて、いまも生家の跡とされる地に石塔が建っている。家は高麗の建国に功のあった家柄だったと伝わる。

高麗は、高麗の科挙を958年に始め、文官を試験で選ぶ国になりつつあった。姜邯賛は983年、この科挙に首席で合格した。すでに30代の半ばを過ぎていた。武人ではなく、学問で身を立てた文官である。
高麗の北には、契丹人の大国・遼(契丹)があった。993年の最初の侵入は、高麗の外交官・徐熙の交渉で兵を交えずに収まったが、1009年、高麗の宮廷で武将の康兆が王を廃して殺し、顕宗を立てる政変が起きると、遼の聖宗はこれを罪を問う口実として、翌1010年、自ら40万と称する大軍を率いて攻め込んだ。康兆は敗れて殺され、遼軍は都の開京に迫った。
宮廷の重臣の多くは降伏を説いた。このとき姜邯賛だけが反対した、と『高麗史』は伝える。罪は康兆にあり、いま戦うには数が足りない。まずは都を避けて時を稼ぎ、後に図るべきだ、と。顕宗は都を捨てて南へ逃れ、はるか全羅道の羅州まで下った。遼軍は開京を焼いたが、高麗の各地の城は落ちず、補給の線が伸びるのを恐れた聖宗は、顕宗が遼に来て臣従するという約束と引き換えに兵を引いた。退く遼軍は、北の城の守将たちの攻撃で大きな損害を出した。
顕宗は約束を守らず、遼に入朝しなかった。遼は国境の六つの城の引き渡しも求めたが、高麗は応じなかった。1018年の暮れ、遼の将軍・蕭排押(蕭遜寧とも記される)が10万の兵で三度目の侵入を始めた。高麗はすでに70歳を超えていた姜邯賛を総大将の上元帥に任じ、20万を超える兵を預けた。
姜邯賛は、鴨緑江を越えた遼軍が最初に通る興化鎮で待ち構えた。『高麗史』によれば、彼は牛の皮を縄でつなぎ合わせて城の東の大きな川をせき止め、騎兵1万2000を山あいに伏せた。遼軍が川を渡り始めたところで堰を切って水を流し、伏兵で襲って大勝した。それでも蕭排押は兵をまとめて南へ進み、開京の近くまで迫った。だが高麗は城の外の食料を片づけて城に籠もる策を取り、遼軍は食料を得られず、都を落とすこともできずに退き始めた。
1019年2月、退く遼軍を姜邯賛は亀州(いまの北朝鮮の平安北道亀城)で迎え撃った(亀州の戦い)。両軍が互いに譲らず戦っていたとき、高麗の援軍が到着し、風向きが変わって南から吹きつけ、雨も降り出した。風を背に受けた高麗軍が押し、遼軍は総崩れになった。遼の兵で生きて帰れた者は数千人にすぎなかったと『高麗史』は記す。
凱旋した姜邯賛を、顕宗は自ら都の外まで出迎え、金の花の枝を手ずからその冠に挿してねぎらったと伝えられる。この敗戦のあと、遼は高麗への大規模な侵攻を止め、両国は和を結んだ。高麗は遼の年号を用いながら独立を保ち、北の国境に長城を築いて備えた。宋・遼・高麗の三国がほぼ並び立つ時代が、ここから1世紀あまり続く。
『高麗史』の列伝は、彼の姿をこう描く。体は小さく見ばえがせず、衣服は垢じみて、ふつうの人と変わらなかった。ところが宋の使者が彼を見ると、思わず拝礼して「文曲星(学問をつかさどる星)を久しく見なかったが、ここにいたのか」と言った、と。性格は清廉で倹約を好み、財を蓄えなかったという。のちの民間の説話では、虎の化けた僧を叱って退けた話や、狐の化身と争う話など、神秘的な力を持つ人物として語られるようになる。
戦いのあと、彼は宰相の位に上り、1030年には最高位の門下侍中となった。翌1031年に死んだ。『高麗史』は享年を84と記す。朝廷は3日間政務を止めて喪に服し、仁憲の諡を贈った。
韓国では、隋の大軍を退けた乙支文徳、豊臣秀吉の水軍を破った李舜臣と並べて、国を救った名将の一人に数えられる。三人の勝利は「薩水大捷」「亀州大捷」「閑山島大捷」として学校で教えられる。武官ではない文官が、70歳を過ぎて総大将を務めたことが、彼の物語を特別なものにしている。ソウルの落星垈は公園として整えられ、2006年には韓国海軍の駆逐艦に彼の名がつけられた。