概要
朱蒙の第二子。扶余から来た兄琉璃が太子になると、兄沸流と南へ。沸流は海辺を選んで死に、温祚は漢江の南、慰礼城に十臣と都した。「十済」から「百済」。国号は百姓が楽しんで済ったから、と『三国史記』。
所属
百済関わったできごと(1)
百済の建国(伝承)BC18年(伝承) · 建国本文
温祚。朱蒙の次男。母は卒本扶余の召西奴、と『三国史記』の別伝。 兄沸流。 琉璃が来た。太子。 「我々は余計者になる」。 十臣。烏干、馬黎。 漢山。負児岳に登って地勢を見た。 沸流は海辺。「海辺は湿って塩辛い」。十臣が止めた。聞かなかった。弥鄒忽。 温祚は慰礼城。BC18年。 沸流の民が帰ってきた。沸流は恥じて死んだ。 「百姓が楽しんで従った」。十済から百済。 靺鞨と楽浪。 BC5年、都を漢山の下に移した。漢江の南から北へ、と読める。 AD28年、死んだ。46年。
BC18年は計算された年。 百済の王で確かに実在が見えるのは3世紀の古爾王から。中国の史書に出るのは近肖古王から。 温祚の話は、百済が扶余と高句麗の系譜を求めた4世紀か5世紀に作られた、と考える人が多い。 それでも王家は扶余氏で、東明の廟を祭り、聖王は南扶余と名乗った。 高句麗の弟、扶余の子。500年、高句麗と戦いながら、自分を高句麗の弟だと言った。 660年、義慈王が降り、扶余隆が唐で死に、扶余豊が倭の兵と白村江で負けた。 温祚の名の廟は、朝鮮王朝が忠清道の稷山に建てた。 仁川には沸流。ソウルには温祚。二人の兄弟が、いまの二つの街に。