朴正熙
概要
慶尚北道の貧農の子。教師、満州軍官学校、日本陸士。1961年の5・16で軍を握り、18年。経済開発、日韓条約、ベトナム派兵、セマウル運動、維新憲法。KCIA部長に宴席で撃たれた。娘の朴槿恵も大統領になり、弾劾された。
本文
1917年、日本の植民地支配下にあった朝鮮の慶尚北道、亀尾の貧しい農家に、5男2女の末っ子として生まれた。母は貧しさから一時はこの子をおろそうとしたと伝えられる。成績は優秀で、学費のかからない大邱師範学校に進み、1937年から聞慶の小学校で教師になった。

だが、教師の暮らしに満足しなかった。軍人を志して、日本が中国東北部に作った満州国の軍官学校を受験した。年齢制限を超えていたため、忠誠を示す血書を添えて志願したことが、当時の満州の新聞に報じられている。1940年に入校し、成績優秀者として日本の陸軍士官学校に送られ、1944年に卒業した。この間、日本風の名前として「高木正雄」を名のっている。満州国軍の将校として終戦を迎えた。
解放後、朝鮮半島の南に作られた警備隊の士官学校に入り直し、韓国軍の将校になった。1948年、軍の中の共産主義者が反乱を起こした麗水・順天事件の後、軍内の南朝鮮労働党の組織の摘発が進み、朴正熙もその一員として逮捕された。重い刑を言い渡されたが、軍の中の組織について情報を提供し、上官たちの助命もあって救われた。この経歴は、のちに政敵から繰り返し持ち出されることになる。朝鮮戦争が始まると軍に復帰し、将官へと昇った。

1960年、不正選挙への抗議から学生たちの革命が起き、李承晩政権が倒れた。後を継いだ政権は混乱を収められなかった。1961年5月16日の未明、陸軍少将の朴正熙は、若い将校たちとともに兵を率いてソウルに入り、政権を握った。5・16軍事クーデターである。国家再建最高会議の議長となり、腹心の金鍾泌に中央情報部(KCIA)を作らせた。この情報機関は、その後18年間、政権に反対する者を監視し、弾圧する道具になる。
1963年、軍服を脱いで大統領選挙に立ち、前大統領の尹潽善をわずか15万票ほどの差で破った。朴正熙が国の目標に掲げたのは、何よりも貧しさから抜け出すことだった。当時の韓国は、1人あたりの国民所得で北朝鮮にも及ばない、世界でも最も貧しい国の一つだった。政府が5か年ごとの経済開発計画を立て、限られた資金を選んだ企業に集中させ、輸出を伸ばした。政府の後押しを受けた企業はやがて財閥と呼ばれる巨大な企業集団に育っていく。
そのための資金を、朴正熙は日本に求めた。1965年、国内の激しい反対運動を戒厳令などで押さえ込んで、日韓基本条約を結んだ。日本は無償3億ドル、有償2億ドルの経済協力を約束し、民間の借款も続いた。植民地支配への謝罪や個人への補償の問題は曖昧なまま残され、これが今日まで両国の間の火種になっている。同じ年、アメリカの求めに応じてベトナム戦争に戦闘部隊を送った。1973年までに延べ32万人ほどが派遣され、5000人ほどが戦死した。派兵の見返りにアメリカから得た援助と、ベトナムでの特需も、経済の成長を支えた。

1970年にはソウルと釜山を結ぶ京釜高速道路が開通し、1973年には日本からの資金と技術で浦項製鉄所が操業を始めた。同じ1970年からは、農村の生活改善を進めるセマウル(新しい村)運動を始めた。貧しい農村に育った朴正熙は、村の道や屋根や井戸を住民の手で直させ、成果を上げた村に重点的に資材を配った。韓国経済は年に10パーセント近い成長を続け、のちに「漢江の奇跡」と呼ばれる発展の土台ができた。
一方で、北朝鮮との緊張は高まっていた。1968年1月には、北朝鮮の特殊部隊31人が大統領官邸の青瓦台のすぐ近くまで侵入し、朴正熙の暗殺を狙う事件が起きている。

政権は長くなるにつれて強権の度を増した。1969年に憲法を改めて3選を可能にし、1971年の大統領選挙では、野党の金大中に迫られながら、8ポイントほどの差で勝った。危機感を抱いた朴正熙は、1972年10月、国会を解散し、全国に非常戒厳を布いて、新しい憲法を作った。「維新憲法」である。大統領は国民の直接選挙ではなく、政府が影響力を持つ機関の間接選挙で選ばれ、再選の制限はなくなり、憲法の効力を停止できる「緊急措置」を出す権限が大統領に与えられた。事実上の終身の独裁だった。1973年には、日本に滞在していた金大中が、東京のホテルから中央情報部によって連れ去られる事件が起き、日本の主権を侵すものとして日韓の大きな問題になった。
1974年8月15日、解放を記念する式典の会場で、在日韓国人の青年が朴正熙を狙って発砲し、流れ弾が夫人の陸英修に当たって、夫人は亡くなった。それから、まだ20代の長女の朴槿恵が、ファーストレディの役を務めるようになった。

1979年秋、釜山と馬山で大規模な反政府デモが起きた。強硬な鎮圧を主張する警護室長の車智澈と、それに反対する中央情報部長の金載圭は対立していた。10月26日の夜、ソウルの宮井洞にある中央情報部の施設で開かれた宴の席で、金載圭は拳銃を取り出し、車智澈を撃ち、続いて朴正熙を撃った。朴正熙は61歳だった。金載圭はのちに死刑になった。動機については、民主化のためだったという本人の主張と、権力争いの末の凶行だったという見方が今も分かれている。
朴正熙の死の後、韓国は民主化に向かうかに見えたが、軍の実権は全斗煥に移り、1980年には光州民主化運動が武力で鎮圧された。韓国が大統領の直接選挙を取り戻すのは、1987年のことである。

朴正熙の評価は、韓国で今も鋭く分かれている。世論調査では、最も高く評価される大統領の上位に入り続ける一方で、多くの人々を投獄し拷問した独裁者として厳しく批判される。貧しい国を工業国に変えた手腕と、日本の軍人として育った経歴、民主主義を踏みにじった統治が、一人の人物の中に同居している。2013年には娘の朴槿恵が大統領となったが、2017年に弾劾によって罷免された。親子2代の大統領の栄光と転落もまた、朴正熙の作った韓国の一つの姿である。遺体は国立ソウル顕忠院に、夫人と並んで眠っている。