できごと

高句麗の建国(伝承)

Founding of Goguryeo
BC37年(伝承)
重要度 4
古シベリアの狩猟採集民北極圏の海獣狩猟民前漢フィン・ウゴル系タイガの狩猟採集民匈奴マウリヤ朝シャンシュン王国高句麗アイヌMin-YueNan-Yue新羅BC37年(伝承)桓仁(卒本)
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているBC37年(伝承)の版図を描いています(12勢力)。

概要

扶余の王子朱蒙は卵から生まれ、弓が巧く、兄たちに憎まれて南へ逃げた。川で魚と亀が橋を作った。卒本に都した。広開土王碑は「天帝の子、母は河伯の娘」と刻む。700年続く国の始まりの物語。

場所

桓仁(卒本)
41.27°N 125.36°E · 中国・遼寧省

関わった人(1)

朱蒙?–BC19年(伝承) · 建国

本文

414年、高句麗の都があった鴨緑江のほとり、いまの中国吉林省の集安に、高さ6メートルを超える巨大な石碑が建てられた。広開土王(好太王)の功績を讃える碑(好太王碑)である。その冒頭は、国の始まりの物語から書き出されている。昔、始祖の鄒牟王が国の基を開いた。王は北扶余から出た天帝の子で、母は河の神(河伯)の娘だった。卵を割って世に降り、生まれながらに聖なる徳を備えていた、という。

碑の続きによれば、鄒牟王は南へ下る途中、扶余の大河の渡し場に行き当たった。王が、我は天帝の子、母は河伯の娘、鄒牟王である、我がために葦を連ね亀を浮かべよ、と呼びかけると、その声に応じて葦が連なり亀が浮かんで、王は川を渡ることができた。そして沸流谷の忽本の西の山の上に城を築いて都を開いた。5世紀の高句麗の王家が、自分たちの始まりをこう語っていたことを、同時代の石が伝えている。

東明聖王(朱蒙)の陵墓、平壌
東明聖王(朱蒙)の陵墓、平壌Wikimedia Commons yeowatzup · CC BY 2.0

12世紀に高麗の金富軾らが編んだ『三国史記』は、この物語をさらに詳しく記す。扶余の金蛙王が太白山の南の川のほとりで、柳花という女に出会った。河伯の娘だと名乗り、天帝の子の解慕漱に誘われて結ばれたために、父に追われてここにいるという。王が柳花を部屋に閉じ込めると、日の光が彼女を追うように照らし、やがて柳花は大きな卵を産んだ。不吉に思った王が卵を犬や豚に与えても食べず、道に捨てると牛や馬がよけて通り、野に捨てると鳥が翼で覆って温めた。割ろうとしても割れず、王は母に返した。殻を破って出てきた男の子は、7歳で自分で弓矢を作って百発百中だった。扶余の言葉で弓の名手を朱蒙と呼んだので、それが名になったという。

金蛙王の7人の王子は朱蒙の才を妬み、太子の帯素は殺してしまうよう王に迫った。危険を察した母に促され、朱蒙は烏伊、摩離、陝父の3人の友と扶余を逃げ出した。追手が迫る中、大きな川に行き当たった朱蒙が、我は天帝の子、河伯の孫である、と川に告げると、魚と鼈が浮かび上がって橋となり、一行が渡り終えると散って、追手は渡れなかった。途中でさらに3人の賢者を仲間に加え、朱蒙は卒本の川のほとりにたどり着いた。土地は肥え、山河は険しく守りに向いていた。宮殿を建てる暇も無く、川のほとりに粗末な庵を結んで住み、国の名を高句麗とし、高を姓とした。紀元前37年、朱蒙22歳のときのことだという。

平壌にある東明王陵
平壌にある東明王陵Wikimedia Commons Kok Leng Yeo [ dead link ] · CC BY 2.0

近くの沸流国の王松譲は、自分は代々ここの王だ、土地は狭く二人の王は並び立てない、私に従え、と迫った。朱蒙は弓の腕比べでこれを負かし、松譲はやがて国ごと降った。朱蒙は在位19年、40歳で死に、龍山に葬られて東明聖王と呼ばれた。息子の類利が、扶余から父を訪ねてきて跡を継いだと伝えられる。

ただ、紀元前37年という年は『三国史記』の計算によるもので、そのまま史実とは受け取れない。広開土王碑は王を始祖から17代目の子孫と数えているが、『三国史記』の王の系図では世代の数が合わない。中国の記録を見ると、紀元前107年に漢が朝鮮半島北部に置いた玄菟郡の中に、すでに高句麗という名の県があった。その地に住む人々がしだいにまとまり、紀元前1世紀のうちには独立した勢力になっていたことは確かとみられている。

卵から生まれ、弓に優れ、魚や亀の橋で川を渡る建国の王の話は、高句麗だけのものではない。1世紀の中国の書物『論衡』には、北方の国から逃れた東明という若者が、同じように川を渡って扶余の国を開いたという話が載っている。高句麗の始祖の物語は、もとは扶余の始祖の物語を受け継いだものとみられる。南の百済も、建国の王温祚を朱蒙の子とし(百済の建国(伝承))、6世紀には国の名を南扶余と改めた。扶余の始祖の物語を、複数の国が自分たちの始まりとして分け合っていたことになる。

朱蒙が最初に都を築いた場所は、中国遼寧省の桓仁の五女山城だと考えられている。断崖に囲まれた山の上の城で、2004年、集安の都の跡や王の墓とともに世界遺産に登録された。高句麗は、427年に都を平壌に移し(高句麗の平壌遷都)、668年に唐と新羅に滅ぼされる(高句麗の滅亡)まで、700年近く続いた。その長い歴史の起点に、天と河の神の血を引く弓の名手の物語が置かれている。

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