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Event / できごと

高句麗の建国(伝承)

Founding of Goguryeo
BC37年(伝承)
重要度 4

概要

扶余の王子朱蒙は卵から生まれ、弓が巧く、兄たちに憎まれて南へ逃げた。川で魚と亀が橋を作った。卒本に都した。広開土王碑は「天帝の子、母は河伯の娘」と刻む。700年続く国の始まりの物語。

場所

桓仁(卒本)
41.27°N 125.36°E · 中国・遼寧省

関わった人(1)

朱蒙?–BC19年(伝承) · 建国

本文

広開土王碑。414年。 「惟れ昔、始祖鄒牟王の創基なり。北扶余より出づ。天帝の子、母は河伯の女郎。卵を剖きて世に降り、生まれながらに聖徳あり」。 「南へ下り、扶余の奄利大水に至る。王、津に臨みて曰く、我は皇天の子、母は河伯の女郎、鄒牟王なり。我がために葦を連ね亀を浮かべよと。声に応じて葦は連なり亀は浮かび、渡ることを得たり」。 「沸流谷忽本の西、山上に城を築きて都を建つ」。

『三国史記』。 扶余の金蛙王が太白山の南の優渤水で柳花を見つけた。天帝の子解慕漱に誘われて父河伯に追われた、と言う。部屋に閉じ込めると日光が体を追って照らし、卵を産んだ。五升の大きさ。王が犬と豚に与えたが食べず、道に捨てたが牛馬が避け、野に捨てたが鳥が翼で覆った。割ろうとして割れず、母に返した。 男の子が殻を破って出た。7歳で自分で弓矢を作り、百発百中。扶余の言葉で弓の巧い者を朱蒙という。 王の7人の子が嫉んだ。太子帯素が「殺せ」。母が「行け」。烏伊、摩離、陝父と逃げた。 淹淲水。「私は天帝の子、河伯の孫。追手が来る」。魚と鼈が浮かんで橋になり、渡ると散った。 毛屯谷で三人に会った。麻の衣、衲の衣、水藻の衣。 卒本川。土地が肥えて山河が険しい。宮室を作る暇がなく、沸流水のほとりに廬を結んで住んだ。国号を高句麗、高を姓に。BC37年、22歳。 沸流国の松譲王が「私は代々ここの王。土地が狭くて二人の主は容れない。私に属せ」。弓で競った。松譲が降った。 19年在位、40歳で死んだ。龍山に葬った。東明聖王。

BC37年は『三国史記』の計算で、碑は「17世孫」の広開土王が414年とするから合わない。 高句麗の実際の始まりは前漢の玄菟郡の高句麗県で、BC1世紀のうちに国になっていたのは確か。 扶余にも東明の話がある。『論衡』の橐離国の東明。同じ話。百済も温祚を朱蒙の子とし、聖王は南扶余と名乗った。 三国が同じ始祖を分け合った。桓仁の五女山城。2004年、世界遺産。

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