できごと

近肖古王の平壌攻め

Geunchogo attacks Pyongyang
AD371年
重要度 3
古シベリアの狩猟採集民北極圏の海獣狩猟民フィン・ウゴル系タイガの狩猟採集民晋グプタ朝グプタ朝サータヴァーハナ朝漢趙(前趙)カリンガ高句麗アイヌ日本チャンパ新羅AD371年平壌
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概要

百済の王が3万で高句麗の平壌を攻め、故国原王を矢で殺した。百済の最盛期。倭に七支刀を贈り、東晋に使いを送り、博士高興に史書を書かせた。その30年後、高句麗の広開土王が仕返しに来る。

場所

平壌
39.04°N 125.76°E · 朝鮮民主主義人民共和国

関わった人(1)

近肖古王?–AD375年 · 王

本文

4世紀の朝鮮半島では、北の高句麗と、南西の百済がそれぞれ力を伸ばしていた。高句麗は313年に、中国の王朝が四百年にわたって半島の北西に置いてきた楽浪郡を滅ぼし、その中心だった平壌の地を手に入れた。百済は、高句麗から分かれた温祚が建てたという伝承(百済の建国(伝承))を持つ国で、漢江の流域、いまのソウルを都としていた。ソウルの東南にある風納土城や夢村土城は、そのころの百済の都の跡と考えられている。楽浪郡が消えたあと、二つの国は、そのあいだの黄海道あたりの土地をめぐってぶつかることになった。

近肖古王は346年に百済の王位に就いた。名は「肖古王の再来」を意味し、昔の王の名を借りて自分の血筋の正しさを示そうとしたのだと考える研究者もいる。彼の30年近い治世に、百済は半島の西南へ領土を広げ、もっとも勢いのある時代を迎えた。

石村洞古墳群3号墳ソウル特別市松坡区。近肖古王の墓とする説が有力視される。
石村洞古墳群3号墳ソウル特別市松坡区。近肖古王の墓とする説が有力視される。Wikimedia Commons Saigen Jiro · CC0

高句麗の王、故国原王は、不運の王だった。342年、遼東から攻め込んだ前燕の軍に都を落とされ、母と王妃を人質に取られ、父の墓を暴かれて遺骸を持ち去られた。彼は前燕に頭を下げてそれらを取り戻し、目を南に向けた。

369年、故国原王は2万の兵で百済に攻め込んだ。百済の太子、近仇首はこれを雉壌で迎え撃って破り、5000人を捕らえたと『三国史記』は記す。371年にも高句麗は攻めてきたが、百済は川の岸に伏兵を置いてこれを退けた。

ソウル石村洞古墳群(近肖古王の時代の百済の古墳)
ソウル石村洞古墳群(近肖古王の時代の百済の古墳)Wikimedia Commons Saigen Jiro · CC0

その年の冬、近肖古王は太子とともに精兵3万を率いて北へ進み、平壌城を攻めた。故国原王は自ら城を守って戦ったが、流れ矢に当たって死んだ。高句麗の王が戦場で敵に討たれて死んだのは、この一度だけである。百済軍は城を落とさずに兵を引いたが、王を討たれた高句麗にとっては、長く忘れられない屈辱になった。同じ年、百済は都を漢山に移したと伝えられる。

勝利のあと、近肖古王は海の向こうに目を向けた。372年、中国の南の東晋(東晋の成立)に使者を送り、東晋は彼を「鎮東将軍・領楽浪太守」に任じた。楽浪郡はすでに無いが、その長官の称号を名乗ることで、半島の北までを治める者だと内外に示したのである。中国の正史『晋書』には、このとき「百済王余句」の名が見える。百済の王が中国の記録に確かな形で現れるのは、これが最初とされる。

同じころ、百済は海を渡って倭とも結んだ。奈良県天理市の石上神宮には、刃の左右に三本ずつ枝の出た、長さ75センチほどの鉄の剣が伝わっている。七支刀と呼ばれ、表と裏に金で60字あまりの文字が象嵌されている。年号は「泰和四年」と読まれることが多く、東晋の太和4年、つまり369年にあたるという説が有力である。銘文には百済の王の世子が倭王のためにこれを作った、という趣旨のことが書かれているが、錆で読めない字があり、百済が倭に献上したのか、上から与えたのかをめぐって、日本と韓国の研究者の読みが分かれてきた。

720年に完成した『日本書紀』(『日本書紀』の完成)は、神功皇后の52年に百済が「七枝刀」を献じたと書いている。『日本書紀』のこの時期の年代は、干支を二回り、120年ずらすと実際の年に合うことが多く、そうすると372年になる。高句麗に対抗するために、百済が倭と手を結んだ印として贈った剣だと考えるのが、いまはおおむね共通した見方である。

『三国史記』は、近肖古王の時代に博士の高興を得て、百済は初めて文字で記録を残すようになり、『書記』という書物を作ったと伝える。この書物は残っていない。『日本書紀』が引用する『百済記』などの百済の史書が、その流れを汲むものかもしれないと考えられている。

近肖古王は375年に亡くなった。その後、百済の勢いは長くは続かなかった。父を討たれた高句麗では、小獣林王が仏教を受け入れ(高句麗への仏教伝来)、法を整えて国を立て直した。その甥にあたる好太王は、391年に即位すると百済へ繰り返し攻め込み、396年には多くの城と村を奪って、百済の王に臣従を誓わせたと好太王碑に刻ませた。

平壌での勝利からおよそ100年後の475年、高句麗の長寿王が百済の都を攻め落とし、百済の王は捕らえられて殺された(百済の漢城陥落)。百済は南の熊津、のちに泗沘へと都を移し、倭との結びつきをいっそう強めていく。近肖古王の時代に結ばれた百済と倭の関係は、660年に百済が滅びるまで続いた。

同じ時代のできごと

蘭亭序AD353年桓温の北伐AD354年ユリアヌスの異教復興AD361年カッパドキア教父AD370年頃敦煌の石窟の造営AD366年(造営の始まり)高句麗への仏教伝来AD372年フン人の西進とゲルマンの移動AD375年顧愷之「女史箴図」AD380年頃
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