概要
テレビの放送が始まったばかりの1954年2月、大相撲の関脇から転じたプロレスラーの力道山は、柔道家の木村政彦と組んで、アメリカのシャープ兄弟と東京の蔵前国技館で戦った。試合はテレビで中継された。受像機は高価で、家庭にはほとんど無かったが、駅前や公園に置かれた街頭テレビの前には、何千、何万という人々が押し寄せた。大きなアメリカ人を空手チョップでなぎ倒す力道山の姿に、敗戦で自信を失っていた人々は熱狂した。力道山は戦後の英雄になったが、朝鮮半島の出身であることは長く伏せられていた。1963年、彼は刺されて亡くなった。
場所
35.68°N 139.77°E · 日本・東京都
本文
1953年2月、NHKがテレビの本放送を始め、8月には民間の日本テレビも放送を始めた(テレビ放送の始まり)。だが、テレビの受像機は大卒の初任給の数十倍もする高価なもので、家庭にはほとんど無かった。日本テレビの正力松太郎は、広告で収入を得るために、多くの人にテレビを見せる必要があると考え、駅前や盛り場、公園など人の集まる場所に、大きな受像機を置いた。「街頭テレビ」である。
力道山は、1924年、日本の統治下の朝鮮で生まれた。少年のころ日本に渡り、大相撲の力士になって関脇まで上ったが、1950年、自ら髷を切って相撲を廃業した。その後、アメリカでプロレスの修業を積み、1953年に日本プロレス協会を作った。
1954年2月19日から3日間、力道山は、柔道の元王者木村政彦と組み、アメリカから招いたシャープ兄弟と、東京の蔵前国技館でタッグの試合を戦った。試合は、NHKと日本テレビが中継した。新橋駅の西口の広場の街頭テレビの前には、二万人ともいわれる群衆が詰めかけ、身動きもできないほどになった。体の大きなアメリカのレスラーの反則に耐え、最後に空手チョップでなぎ倒す力道山の姿に、人々は歓声を上げた。
敗戦と占領で自信を失っていた日本の人々にとって、アメリカ人を打ち負かす力道山は、胸のすく英雄だった。プロレスの中継は、テレビの最も人気のある番組になり、テレビを持つ家や電器店、喫茶店には、近所の人々が集まった。プロレスは、テレビを普及させる原動力の一つになった。1954年12月には、力道山と木村政彦の試合が「昭和の巌流島」と呼ばれて大きな話題になったが、試合の途中で力道山が一方的に攻撃する展開になり、遺恨を残した。
力道山は、事業家としても成功し、プロレスの興行のほか、ビルやゴルフ場の経営にも乗り出した。だが、日本人の英雄とされた力道山が朝鮮半島の出身であることは、生前ほとんど公にされなかった。1963年12月、赤坂のナイトクラブで、暴力団の組員に腹を刺され、その傷がもとで39歳で亡くなった。彼の弟子のジャイアント馬場とアントニオ猪木が、その後の日本のプロレスを担った。