概要
知里幸恵は1903年、北海道の登別に、アイヌの家に生まれた。祖母と伯母から、神々が自らを語る謡「カムイユカラ」を聞いて育った。15歳のとき、アイヌ語を研究していた言語学者の金田一京助に出会い、その勧めで、謡を自分でローマ字で書き取り、日本語に訳した。1922年、東京の金田一の家で校正を終えた夜、心臓の病で亡くなった。19歳だった。翌1923年、『アイヌ神謡集』が出版された。アイヌの人が自らの言葉で自らの文化を書き残した最初の本である。アイヌ語は、同化の政策のなかで話す人が激減し、いまでは消滅の危機にある言語とされている。
場所
35.68°N 139.77°E · 日本・東京都
本文
アイヌの人々は、文字を持たず、豊かな言葉の文化を口伝えで受け継いできた。英雄の戦いを語る長い叙事詩ユカラ、神々が自らの体験を一人称で語るカムイユカラ、昔話、祈りの言葉。明治になると、政府は北海道の開拓を進め、アイヌの人々の土地を奪い、狩りや漁を制限し、日本語を話し日本式の暮らしをするよう求めた(北海道旧土人保護法)。学校では日本語で教えられ、アイヌ語を話す若い人は減っていった。
知里幸恵は、1903年、北海道の登別で生まれた。6歳のころから旭川の伯母の家で育てられた。伯母の金成マツと祖母のモナシノウクは、ユカラの優れた伝承者だった。幸恵は、アイヌ語を母語として話しながら、学校では日本語で優秀な成績を収めた。
1918年、アイヌ語の研究のために北海道を回っていた言語学者の金田一京助が、伯母の家を訪れた。金田一は、15歳の幸恵の聡明さに驚き、彼女に、カムイユカラをローマ字で書き取り、日本語に訳すことを勧めた。幸恵は、ノートに一つ一つの謡を書き留め、日本語の訳をつけていった。
1922年5月、幸恵は金田一に招かれて上京し、金田一の家に住みながら、原稿の仕上げと校正を進めた。彼女は心臓に病を抱えていた。9月18日、校正を終えたその夜、幸恵は発作を起こして亡くなった。19歳だった。
1923年8月、『アイヌ神謡集』が出版された。13編のカムイユカラが、左のページにローマ字のアイヌ語、右のページに日本語の訳を並べる形で収められている。最初の一編、梟の神が自らを語る謡は、銀の滴降る降るまわりに、という美しい繰り返しで知られる。序文で幸恵は、かつて北海道は先祖たちの自由な天地であったと書き、滅びゆく自分たちの言葉と物語を書き残したいという思いを記した。アイヌの人が、自らの言葉で自らの文化を書き残した最初の本だった。
幸恵の弟の知里真志保は、のちにアイヌ語の研究者になった。アイヌ語は、20世紀を通じて話す人が激減し、2009年、ユネスコは極めて深刻な消滅の危機にある言語とした。2019年、アイヌの人々を先住民族と法律で初めて明記した法が作られ、アイヌ語を学び、残し、伝える取り組みが続けられている。