できごと

アパルトヘイトの終結

End of apartheid
AD1994年
重要度 5
アパルトヘイトの終結に関わる図版:F.W. de Klerk, left, the last president of apartheid-era South Africa, and Nelson Mandela, his successor, wait to speak
F.W. de Klerk, left, the last president of apartheid-era South Africa, and Nelson Mandela, his successor, wait to speak  Wikimedia Commons Carol M. Highsmith · Public domain

概要

全人種が参加する選挙が行われ、マンデラが大統領になった。報復ではなく和解が選ばれる。

場所

ヨハネスブルグ
-26.20°N 28.05°E · 南アフリカ

関わった人(3)

スティーヴ・ビコAD1946年12月18日–AD1977年9月12日 · その死が運動を広げたミリアム・マケバAD1932年3月4日–AD2008年11月9日 · 31年帰れなかったネルソン・マンデラAD1918年7月18日–AD2013年12月5日 · 当人

本文

南アフリカでは、白人の少数派が長く政治を握ってきた。1948年の総選挙で、オランダ系白人(アフリカーナー)を支持基盤とする国民党が勝つと、人種隔離が国の制度として組み上げられていく。全国民を人種で登録し、住む地域を人種ごとに分け、結婚や交際まで法で縛った。黒人は「ホームランド」と呼ばれる名目上の自治区に籍を割り振られ、白人の町で働くには通行証を持ち歩かねばならなかった。これをアフリカーンス語で「隔離」を意味するアパルトヘイトと呼ぶ。

教育も分けられた。黒人の子どもには、白人に仕える労働者として必要な程度の教育しか与えない方針がとられ、学校に回される予算は白人の子どもの何分の一にも満たなかった。公園のベンチ、海岸、バス、病院の入り口まで「白人用」と「非白人用」に分けられた。インド系や混血の「カラード」と呼ばれた人々も、白人とは別の区分に押し込められた。

1990年2月の釈放直後、最初の記者会見に応じるネルソン・マンデラ(右)
1990年2月の釈放直後、最初の記者会見に応じるネルソン・マンデラ(右)Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

その土台は国民党より前に作られていた。1910年に南アフリカ連邦が成立すると、1913年の原住民土地法は、黒人が土地を持てる場所を国土のわずか7%ほどに限った(後に13%ほどに広げられる)。人口の大多数を占める黒人が、狭い土地に押し込められ、白人の農場や鉱山で働くほかなくなった。アパルトヘイトは、その上に体系的な法の網をかぶせたものだった。

抵抗は早くからあった。1960年、通行証法に抗議する人々に警官が発砲し、69人が死んだ(シャープビル虐殺)。政府はアフリカ民族会議(ANC)を非合法化し、ANCは武装闘争に転じた。その指導者の一人ネルソン・マンデラは1962年に捕らえられ、1964年に終身刑を言い渡されてロベン島の監獄に送られた。

1976年、黒人の学校でアフリカーンス語での授業を強いる方針に、ソウェトの生徒たちが立ち上がった(ソウェト蜂起)。翌1977年、黒人意識運動を率いたスティーヴ・ビコが警察の拘留中に死んだ。その死に方が明らかになるにつれ、国内外の怒りは広がった。歌手のミリアム・マケバは1959年に国を出たまま帰国を許されず、国連でアパルトヘイトを告発し続けていた。

ソウェト蜂起に関わる図版:Mbuyisa Makhubu carries Hector Pieterson at Soweto Uprising
ソウェト蜂起Wikimedia Commons Sam Nzima · Public domain

1980年代、南アフリカは国際的に孤立した。スポーツの国際大会から締め出され、欧米では経済制裁と投資の引き揚げが進んだ。国内では抗議と弾圧が繰り返され、非常事態宣言が出された。冷戦が終わりに近づくと、ANCを共産主義の手先として恐れる理由も薄れていく。

1989年に大統領になったデクラークは、翌1990年2月、ANCの合法化とマンデラの釈放を発表した。2月11日、マンデラは27年ぶりに自由の身となって刑務所の門を出た。71歳だった。マケバも同じ年に、31年ぶりに故郷の土を踏んだ。

スティーヴ・ビコ追悼集会のチラシ
スティーヴ・ビコWikimedia Commons Cape Argus · Public domain

そこから選挙までの4年は、平穏ではなかった。白人政府とANCの交渉と並行して、ANCとズールー人を基盤とするインカタ自由党の衝突などで、数千人が命を落とした。1993年4月、ANCの人気指導者クリス・ハニが白人右翼に暗殺されたときには、国が内戦に転げ落ちるかと危ぶまれた。マンデラはテレビで国民に自制を呼びかけた。この年、マンデラとデクラークはノーベル平和賞を共に受けている。

1994年4月、すべての人種が投票できる初めての総選挙が行われた。何キロにも及ぶ投票の列ができ、ANCが6割を超える票を得た。4月27日は今も「自由の日」として祝われる。5月10日、マンデラは大統領に就任した。27年閉じ込められていた人が、自分を閉じ込めた側を裁かない道を選んだ。

ディジー・ガレスピー(左)とのコンサート(1991年)
ミリアム・マケバWikimedia Commons Roland Godefroy · CC BY 3.0

その象徴が真実和解委員会である。デズモンド・ツツ大主教を委員長に1995年に設けられ、アパルトヘイトのもとで起きた暴力を、加害者・被害者の双方から公の場で聞き取った。政治的な動機による行為をすべて明かせば、恩赦を受けられる道もあった。申請は7千件を超えたが、認められたのはその一部にとどまる。裁いて終わらせるのではなく、何が起きたのかを記録に残すことを優先した仕組みだった。

罰を求めた遺族は少なくない。ビコの家族も恩赦に反対した。和解を選んだことへの評価は、南アフリカの中でも割れている。それでも、流血の報復の連鎖を避けたことは、多くの国の移行期の手本として参照された。

青年時代 1937年頃
ネルソン・マンデラWikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

マンデラは和解を言葉だけでなく、目に見える形で示そうとした。1995年、南アフリカで開かれたラグビーのワールドカップで、彼は白人のスポーツの象徴とされてきた代表チームのジャージを着て決勝の会場に現れ、優勝杯を主将に手渡した。黒人の多くにとっては抑圧の象徴だったチームを、国全体のものとして抱き込む演出だった。マンデラは1期5年で大統領を退き、権力に居座らない姿を見せた。

法の上の人種隔離は終わったが、土地の所有と所得の格差は残った。南アフリカは今も、世界でも最も所得の格差が大きい国の一つに数えられる。制度を変えるのに数年、その結果を変えるのに何十年かかるかは、まだ分かっていない。

動画(1)

200 現代のアジア・アフリカ 世界史20話プロジェクト第20話Historia Mundi ムンディ先生高校の世界史を200講で通す講義の第200講「現代のアジア・アフリカ」

出典(1)

サミュエル・P・ハンチントン(鈴木主税 訳) 『文明の衝突』第II部(西洋と非西洋)

同じ時代のできごと

コールドチェーンAD1974年バーコードの最初の会計AD1974年6月26日ウォーターゲート事件AD1974年8月9日コンビニの一号店AD1974年5月15日ヘルシンキ宣言AD1975年8月1日パプアニューギニアの独立AD1975年9月16日カンボジアの大量虐殺1975年レバノン内戦AD1975年4月13日
この項目は誰でも直せます。編集する編集履歴
AD1994年の世界を地図で見る国境・できごと・生きている人が、その年のものに入れ替わります歴史データベースとは? →