黒死病
概要
ヨーロッパの人口の3分の1が死んだ。働き手が減って農奴の立場が上がり、封建の仕組みが緩む。
本文
1347年から1351年にかけて、ペストがヨーロッパ、北アフリカ、西アジアを襲った。わずか4、5年で、ヨーロッパの人口の3分の1から半分が死んだと推計される。のちに「黒死病」と呼ばれるこの大流行は、人類が経験した最悪の疫病の一つであり、生き残った人々の社会の形まで変えていった。
病の正体は、ペスト菌という細菌である。ふだんは野生のネズミなどの齧歯類のあいだで、ノミを介して広がっている。人がノミに刺されると、脚の付け根や脇の下のリンパ節が鶏卵ほどに腫れ上がり、高い熱が出て、数日で多くが死ぬ。菌が肺に入ると、咳とともに人から人へうつり、ほぼ確実に死に至った。皮膚の下の出血で体に黒い斑点が出ることがあり、「黒死病」という呼び名はそこから来たとも、「恐ろしい死」を意味する言葉の訳から来たとも言われる。

病は、東から来た。近年、古い墓に残る人骨のDNAを調べる研究が進み、中央アジアのキルギスの墓地に、1338年から39年に疫病で死んだと刻まれた墓石があり、そこに葬られた人々の歯から、黒死病のもとになった菌が見つかった。天山山脈の周辺の草原が出発点だった可能性が高い。そこから菌は、モンゴル帝国の拡大が東西を結んだ交易の道を、隊商や軍とともに西へ運ばれた。
1346年、黒海北岸のクリミア半島で、ジェノヴァ人の交易の拠点カッファを、モンゴルのジョチ・ウルスの軍が囲んでいた。そのさなかに包囲軍の中でペストが広がった。イタリアの年代記作者は、包囲軍が死体を投石機で町の中へ投げ込み、病をうつしたと書いている。ただ、この記述がどこまで本当か、それが本当に広がった道筋なのかには疑問も出されている。確かなのは、黒海とイタリアを結ぶ商人たちの船が、病を地中海へ運んだことである。

1347年10月、ジェノヴァの船がシチリアのメッシーナの港に着いた。そこから3年のうちに、病はヨーロッパの端まで達している。1348年にはヴェネツィア、フィレンツェ、マルセイユ、パリ、そしてイングランドへ。1349年には北のスカンディナヴィアへ、1350年代の初めにはロシアに至った。同じ頃、エジプトのカイロやシリアのダマスカスなど、イスラム世界の大都市も大きな打撃を受けた。
死者の数は、正確には分からない。記録の残る町や村から推し量ると、ヨーロッパの人口の3分の1から半分、数にして2500万から5000万ほどになる。フィレンツェでは人口の半分以上が死んだとされる。作家ボッカッチョは『デカメロン』の冒頭に、その年のフィレンツェの様子を書いた(『デカメロン』)。親が子を、夫が妻を見捨てて逃げ、墓地に入りきらない死体が、大きな穴に何層にも重ねて埋められていった。村ごと人がいなくなった例も各地にあった。イングランドには、中世に放棄された村の跡が数多く残り、畑の畝や家の土台が航空写真で今もはっきりと見える。その中には、ペストとその後の人口減少が、放棄のきっかけになった村も多い。

人々は、原因を知らなかった。1348年、フランス王の求めでパリ大学の医学者たちが出した答えは、数年前に起きた土星と木星と火星の重なりが空気を腐らせた、というものだった。腐った空気、つまり瘴気が病を運ぶと信じられ、人々は香りの強い草を焚き、窓を閉ざした。神の怒りだと考えた人々は、上半身裸で列をなして町を巡り、自分の背を鞭で打って罪を償おうとした。
そして、ユダヤ人が井戸に毒を入れたという噂が広がった。1348年から49年にかけて、スイス、ドイツ、フランス東部の町々で、ユダヤ人の共同体が襲われ、多くの人が焼き殺された。ストラスブールでは、1349年2月、ペストが町に届く前に、数百人から2千人ともいわれるユダヤ人が殺されている。アヴィニョンの教皇クレメンス6世は、ユダヤ人も同じように死んでいるのだから毒のせいではない、と虐殺を禁じる勅書を出したが、止められなかった。
人が減ったことで、生き残った者の暮らしは変わった。働き手が足りなくなり、農民と職人の労働力に高い値が付いた。領主は畑を耕す者を引き止めるために、賦役を軽くし、地代を下げなければならなくなった。こうして西ヨーロッパでは、農民を土地に縛りつける農奴制が緩んでいく。イングランドは、賃金をペスト以前の水準に法で抑えようとしたが、それが農民の不満を積もらせ、1381年のワット・タイラーの乱の背景の一つになった。フランスでは1358年に農民の反乱が起きている(ジャックリーの乱)。一方、東ヨーロッパの一部では、逆に領主が農民への締めつけを強める方向へ進んだ。同じ人手不足が、地域によって違う結果を生んだ。

ペストは一度で終わらなかった。1360年代から、10年、20年おきに繰り返し流行し、ヨーロッパの人口が1347年以前の水準に戻るには、150年以上かかった。この間に、病への備えも生まれた。1377年、アドリア海の港ラグーザ(いまのドゥブロヴニク)は、疫病の地から来た船と人を、町に入れる前に一定の日数とどめ置くことにした。この隔離の期間は、のちに40日に定められ、イタリア語の「40」から、検疫を意味する「クアランティン」という言葉が生まれた。西ヨーロッパの最後の大流行は、1720年のマルセイユである(マルセイユのペスト)。
原因が細菌だと分かるのは、1894年である。香港で流行が起きたとき、スイス生まれのフランスの医学者イェルサンと、日本の北里柴三郎が、それぞれ病原菌を見つけた(第三次ペスト大流行)。それまでの550年近く、この病は空気の毒とされ、神の罰とされ、あるいは隣に住む人々のせいにされていた。原因の分からない死を前にして、人々が誰を責めたか。黒死病の記録は、病そのものと同じくらい、そのことを伝えている。