できごと

黒死病

Black Death
1347年 – 1351年
期間を持つできごと重要度 5
1347年

概要

ヨーロッパの人口の3分の1が死んだ。働き手が減って農奴の立場が上がり、封建の仕組みが緩む。

本文

1347年から1351年にかけて、ペストがヨーロッパ、北アフリカ、西アジアを襲った。わずか4、5年で、ヨーロッパの人口の3分の1から半分が死んだと推計される。のちに「黒死病」と呼ばれるこの大流行は、人類が経験した最悪の疫病の一つであり、生き残った人々の社会の形まで変えていった。

病の正体は、ペスト菌という細菌である。ふだんは野生のネズミなどの齧歯類のあいだで、ノミを介して広がっている。人がノミに刺されると、脚の付け根や脇の下のリンパ節が鶏卵ほどに腫れ上がり、高い熱が出て、数日で多くが死ぬ。菌が肺に入ると、咳とともに人から人へうつり、ほぼ確実に死に至った。皮膚の下の出血で体に黒い斑点が出ることがあり、「黒死病」という呼び名はそこから来たとも、「恐ろしい死」を意味する言葉の訳から来たとも言われる。

Xenopsylla chepsis (oriental rat flea)
Wikimedia Commons Centers for Disease Control and Prevention · Public domain

病は、東から来た。近年、古い墓に残る人骨のDNAを調べる研究が進み、中央アジアのキルギスの墓地に、1338年から39年に疫病で死んだと刻まれた墓石があり、そこに葬られた人々の歯から、黒死病のもとになった菌が見つかった。天山山脈の周辺の草原が出発点だった可能性が高い。そこから菌は、モンゴル帝国の拡大が東西を結んだ交易の道を、隊商や軍とともに西へ運ばれた。

1346年、黒海北岸のクリミア半島で、ジェノヴァ人の交易の拠点カッファを、モンゴルのジョチ・ウルスの軍が囲んでいた。そのさなかに包囲軍の中でペストが広がった。イタリアの年代記作者は、包囲軍が死体を投石機で町の中へ投げ込み、病をうつしたと書いている。ただ、この記述がどこまで本当か、それが本当に広がった道筋なのかには疑問も出されている。確かなのは、黒海とイタリアを結ぶ商人たちの船が、病を地中海へ運んだことである。

フランス南部マルセイユ近郊にある1720-1721年の集団墓地で採集された人骨には、腺ペストの病原体であるペスト菌の東洋株の分子的証拠が見つかった。
フランス南部マルセイユ近郊にある1720-1721年の集団墓地で採集された人骨には、腺ペストの病原体であるペスト菌の東洋株の分子的証拠が見つかった。Wikimedia Commons S. Tzortzis · Public domain

1347年10月、ジェノヴァの船がシチリアのメッシーナの港に着いた。そこから3年のうちに、病はヨーロッパの端まで達している。1348年にはヴェネツィア、フィレンツェ、マルセイユ、パリ、そしてイングランドへ。1349年には北のスカンディナヴィアへ、1350年代の初めにはロシアに至った。同じ頃、エジプトのカイロやシリアのダマスカスなど、イスラム世界の大都市も大きな打撃を受けた。

死者の数は、正確には分からない。記録の残る町や村から推し量ると、ヨーロッパの人口の3分の1から半分、数にして2500万から5000万ほどになる。フィレンツェでは人口の半分以上が死んだとされる。作家ボッカッチョは『デカメロン』の冒頭に、その年のフィレンツェの様子を書いた(『デカメロン』)。親が子を、夫が妻を見捨てて逃げ、墓地に入りきらない死体が、大きな穴に何層にも重ねて埋められていった。村ごと人がいなくなった例も各地にあった。イングランドには、中世に放棄された村の跡が数多く残り、畑の畝や家の土台が航空写真で今もはっきりと見える。その中には、ペストとその後の人口減少が、放棄のきっかけになった村も多い。

『デカメロン』に関わる図版:Boccaccio - Decameron, MCCCCLXXXXII ad di XX de giugno - 3852856 Scan00015
『デカメロン』Wikimedia Commons Boccaccio, Giovanni · Public domain

人々は、原因を知らなかった。1348年、フランス王の求めでパリ大学の医学者たちが出した答えは、数年前に起きた土星と木星と火星の重なりが空気を腐らせた、というものだった。腐った空気、つまり瘴気が病を運ぶと信じられ、人々は香りの強い草を焚き、窓を閉ざした。神の怒りだと考えた人々は、上半身裸で列をなして町を巡り、自分の背を鞭で打って罪を償おうとした。

そして、ユダヤ人が井戸に毒を入れたという噂が広がった。1348年から49年にかけて、スイス、ドイツ、フランス東部の町々で、ユダヤ人の共同体が襲われ、多くの人が焼き殺された。ストラスブールでは、1349年2月、ペストが町に届く前に、数百人から2千人ともいわれるユダヤ人が殺されている。アヴィニョンの教皇クレメンス6世は、ユダヤ人も同じように死んでいるのだから毒のせいではない、と虐殺を禁じる勅書を出したが、止められなかった。

人が減ったことで、生き残った者の暮らしは変わった。働き手が足りなくなり、農民と職人の労働力に高い値が付いた。領主は畑を耕す者を引き止めるために、賦役を軽くし、地代を下げなければならなくなった。こうして西ヨーロッパでは、農民を土地に縛りつける農奴制が緩んでいく。イングランドは、賃金をペスト以前の水準に法で抑えようとしたが、それが農民の不満を積もらせ、1381年のワット・タイラーの乱の背景の一つになった。フランスでは1358年に農民の反乱が起きている(ジャックリーの乱)。一方、東ヨーロッパの一部では、逆に領主が農民への締めつけを強める方向へ進んだ。同じ人手不足が、地域によって違う結果を生んだ。

ワット・タイラーの乱に関わる図版:Jean Froissart, Chroniques, 154v, 12148 btv1b8438605hf336, crop
ワット・タイラーの乱Wikimedia Commons Jean Froissart · Public domain

ペストは一度で終わらなかった。1360年代から、10年、20年おきに繰り返し流行し、ヨーロッパの人口が1347年以前の水準に戻るには、150年以上かかった。この間に、病への備えも生まれた。1377年、アドリア海の港ラグーザ(いまのドゥブロヴニク)は、疫病の地から来た船と人を、町に入れる前に一定の日数とどめ置くことにした。この隔離の期間は、のちに40日に定められ、イタリア語の「40」から、検疫を意味する「クアランティン」という言葉が生まれた。西ヨーロッパの最後の大流行は、1720年のマルセイユである(マルセイユのペスト)。

原因が細菌だと分かるのは、1894年である。香港で流行が起きたとき、スイス生まれのフランスの医学者イェルサンと、日本の北里柴三郎が、それぞれ病原菌を見つけた(第三次ペスト大流行)。それまでの550年近く、この病は空気の毒とされ、神の罰とされ、あるいは隣に住む人々のせいにされていた。原因の分からない死を前にして、人々が誰を責めたか。黒死病の記録は、病そのものと同じくらい、そのことを伝えている。

動画(2)

090 封建社会の衰退 世界史20話プロジェクト第10話Historia Mundi ムンディ先生高校の世界史を200講で通す講義の第90講「封建社会の衰退」
The past, present, and future of the bubonic plague - Sharon N. DeWitteTED-Ed骨考古学から、誰が死に誰が生き残ったかを読む方法が示される

出典(10)

ダロン・アセモグル、ジェイムズ・A・ロビンソン(鬼澤忍 訳) 『国家はなぜ衰退するのか 権力・繁栄・貧困の起源』第4章 小さな相違と決定的な岐路
ウィリアム・H・マクニール(佐々木昭夫 訳) 『疫病と世界史』第4章 モンゴル帝国の勃興と疾病バランスの変化
ウィリアム・H・マクニール(増田義郎、佐々木昭夫 訳) 『世界史』第II部 諸文明間の平衡状態(BC500〜AD1500年)
マット・リドレー(大田直子、鍛原多惠子、柴田裕之 訳) 『繁栄 明日を切り拓くための人類10万年史』第6章 マルサスの罠から逃れる
ジャネット・L・アブー=ルゴド(佐藤次高ほか 訳) 『ヨーロッパ覇権以前 もうひとつの世界システム』結論(14世紀の崩れ)
フェルナン・ブローデル(浜名優美 訳) 『地中海』第I部 環境の役割(人口と土地)
ヨハン・ホイジンガ(堀越孝一 訳) 『中世の秋』第11章(死のイメージ)
エマニュエル・ル・ロワ・ラデュリ(井上幸治ほか 訳) 『モンタイユー ピレネーの村 1294-1324』本が扱う時代の、すぐあとに来るもの
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