できごと

鳥の糞の時代

Peruvian guano boom
AD1840年代
重要度 4
大英帝国Viceroyalty of Brazilヌエバ・エスパーニャ副王領ヌエバ・グラナダ副王領ペルー副王領United Provinces of La PlataパラグアイGuianaAD1840年代チンチャ諸島
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1840年代の版図を描いています(8勢力)。

概要

ペルー沖の小さな島々には、雨がほとんど降らないため、海鳥の糞が何千年も流されずに積み重なり、厚さ数十メートルの層になっていた。窒素とリンを多く含むこの糞は、畑に撒けば収穫が大きく増える。1840年代、ヨーロッパとアメリカの農家がこぞって買い求め、ペルーの国の収入の大半がこの糞になった。掘ったのは、中国から契約労働で連れてこられた人々で、鼻を突く粉塵の中で、逃げられない島で働かされた。糞は数十年で掘り尽くされる。そのあとを継いだのは、隣の砂漠の硝石をめぐる戦争だった。

場所

チンチャ諸島
-13.64°N -76.40°E · ペルー・イカ州

本文

南アメリカのペルーの沖には、南極の近くから冷たい海流が北へ流れている。冷たい海の底から養分の多い水がわき上がり、そこにはカタクチイワシなどの魚が群れをなす。その魚を食べて、ウやペリカンやカツオドリなどの海鳥が、何百万羽も沖の小島に集まって巣を作る。そして、この海岸にはほとんど雨が降らない。鳥の糞は雨に流されることなく、何千年ものあいだ島の上に積もり続け、乾いて固まった層は、ところによって数十メートルの厚さになった。インカの言葉ケチュア語で糞を意味する言葉から、これはグアノと呼ばれる。

グアノには、植物の育ちに欠かせない窒素とリンが、たっぷり含まれている。インカの人々は、この糞を畑に撒けばよく実ることを知っていた。鳥が子を育てる時期に島へ入ることを禁じ、鳥を殺した者を罰した、と後世の記録は伝えている。ヨーロッパにグアノを紹介したのは、19世紀の初めに南アメリカを旅したドイツの博物学者アレクサンダー・フォン・フンボルトで、彼は試料を持ち帰って調べさせた。

ナウルのグアノ採掘跡地
ナウルのグアノ採掘跡地Wikimedia Commons Public domain

1840年代、グアノはヨーロッパとアメリカで飛ぶように売れ始めた。ヨーロッパでは人口が増え、畑からもっと多くの作物を取ることが求められていた。土に足りない養分を補えば収穫が増えることは、化学者たちが明らかにしつつあった。だが、化学で肥料を作る方法は、まだ無かった。イギリスの農家は、地球の裏側から運ばれてくる鳥の糞を、こぞって買い求めた。

宝の山は、ペルーの南の沖にあるチンチャ諸島だった。ペルー政府はグアノの出る島を国のものとし、外国の商社に売る権利を与えて、その代金を受け取った。1850年代から60年代にかけて、国の収入の半分を大きく超える額が、グアノから来ていた。その金で鉄道が引かれ、奴隷制が廃止され、先住民に課されていた人頭税が廃止されたが、同時に政府は、グアノの収入をあてにして外国から多額の借金を重ねた。グアノをめぐる熱は外国も動かした。アメリカは1856年、誰のものでもない島でグアノを見つけたアメリカ人は、その島をアメリカの領土として名乗り出てよい、という法律を作り、太平洋とカリブ海の多くの島が、この法律のもとで領有を主張された。1864年には、スペインがチンチャ諸島を一時占領し、戦争に発展している。

メキシコオヒキコウモリ。虫を食べるコウモリは昔からグアノの主な供給源だった
メキシコオヒキコウモリ。虫を食べるコウモリは昔からグアノの主な供給源だったWikimedia Commons U.S. Fish and Wildlife Service Headquarters · Public domain

グアノを掘ったのは、誰だったのか。中心になったのは、中国の南部から契約労働者として連れてこられた人々だった。19世紀の半ばから1870年代にかけて、10万人ほどの中国人がペルーへ渡り、農園や鉄道の工事、そしてグアノの島で働かされた。1872年に横浜港で問題になったペルー船の苦力たちも、こうしてペルーへ運ばれる途中だった(娼妓解放令)。島での労働は過酷を極めた。木一本無い小さな島には逃げ場が無く、鼻と喉を焼くアンモニアの臭いと粉塵の中で、一日に決められた量を掘り終えなければ鞭で打たれた。絶望して海に身を投げる者が多かったことを、島を訪れた人々が書き残している。囚人や、太平洋の島々から連れてこられた人々も働かされた。

何千年もかけて積もった糞は、数十年で掘り尽くされた。1870年代には、チンチャ諸島の良質のグアノはほとんど残っていなかった。収入の柱を失ったペルーは借金を返せなくなり、1876年には外国の債権者への支払いが滞った。

1884年のグアノの広告
1884年のグアノの広告Wikimedia Commons Allison & Addison · Public domain

次に人々の目が向いたのは、ペルーとボリビアの南、アタカマ砂漠の硝石だった。硝石もまた、窒素を多く含み、肥料や火薬の原料になる。その硝石の利権をめぐって、1879年、チリとペルー・ボリビアの同盟が戦った(太平洋戦争(南米))。戦争はチリの勝利に終わり、チリは硝石の産地を手に入れ、ボリビアは海への出口を失った。ボリビアはいまも海軍を持ち、海を取り戻すことを国の悲願としている。

その硝石の時代も、長くは続かなかった。20世紀の初め、ドイツの化学者たちが、空気中の窒素からアンモニアを作る方法を完成させた(ハーバー・ボッシュ法)。肥料の窒素は、鳥の糞からも砂漠からも取らなくてよくなった。いま世界の人々が食べている食料の多くは、この化学の肥料に支えられている。

ハーバー・ボッシュ法に関わる図版:Fritz Haber
ハーバー・ボッシュ法Wikimedia Commons The Nobel Foundation · Public domain

ペルーの沖の鳥たちは、いまも島に巣を作っている。20世紀に入ってから、ペルー政府は島と鳥を守り、少しずつたまる新しいグアノを決まった量だけ取るようにした。有機の肥料として、グアノはいまも細々と売られている。

鳥たちは、働いているつもりなどなかった。ただ魚を食べ、糞をしただけである。人間はそれを、何千年分まとめて取った。一つの国の財政が鳥の糞の上に乗り、それが尽きたとき、国には借金と、遠い国から連れてこられた人々の苦しみの記憶が残った。一つの資源に頼った国が、その資源とともに傾いていく。グアノの時代は、そうした話のもっとも早い例の一つである。

同じ時代のできごと

キニーネを取り出すAD1820年ムフェカネAD1820年頃伊能忠敬の日本図AD1821年ギリシア独立戦争1821年チェロキー文字の完成AD1821年ロゼッタ・ストーンの解読AD1822年9月動物を守る法AD1822年二宮尊徳の村の立て直しAD1820年代
この項目は誰でも直せます。編集する編集履歴
AD1840年の世界を地図で見る国境・できごと・生きている人が、その年のものに入れ替わります歴史データベースとは? →