概要
1892年、京都府綾部の貧しい女性出口なおが神がかりし、世の立て替え立て直しを告げた。娘婿の出口王仁三郎が教えを広め、大本は大正から昭和にかけて、知識人や軍人も引きつける大きな教団になった。政府は、天皇を中心とする国の秩序を脅かすものとして大本を警戒した。1935年12月8日の未明、警官およそ五百人が綾部と亀岡の本部を急襲し、王仁三郎ら幹部を、治安維持法と不敬の罪で捕らえた。教団は解散させられ、建物はダイナマイトで壊された。1942年の二審で治安維持法の罪は無罪とされたが、教団が自由を取り戻したのは敗戦後だった。
場所
35.30°N 135.25°E · 日本・京都府綾部市
本文
1892年、京都府綾部に住む56歳の女性、出口なおは、突然神がかりした。夫に先立たれ、糸繰りやぼろ買いで暮らしを立ててきた、読み書きのできない女性だった。なおに降りた艮の金神は、いまの世は強い者勝ちの獣の世であり、まもなく世の立て替え立て直しが来ると告げた。なおが神の言葉として書きつけた「お筆先」は、のちに膨大な量にのぼった。
なおの娘婿になった出口王仁三郎は、なおの教えを、独自の神話と思想で大きく組み立て直した。王仁三郎は、新聞社を買い取って宣伝し、大正の半ばには、知識人や海軍の軍人までもが大本に加わった。世の立て替えの予言は、社会の不安と結びついて人々を引きつけた。王仁三郎は、自分を救世主になぞらえ、白馬にまたがる姿の写真を広めた。
天皇を中心とする国の秩序に並び立つような神と救世主を説く教団を、政府は危険とみなした。1921年、政府は不敬などの罪で王仁三郎らを捕らえ、本部の神殿を壊させた(第一次大本事件)。だが王仁三郎は保釈され、教団はさらに大きくなった。1930年代には、王仁三郎は右翼の団体とも手を組み、昭和神聖会を作って、数百万人の賛同者を集めたと称した。
1935年12月8日の未明、警官およそ五百人が、綾部と亀岡の大本の本部を急襲した。王仁三郎をはじめとする幹部が、治安維持法と不敬の罪で捕らえられ、検挙された信徒は千人近くにのぼった。取り調べでは拷問も行われ、獄中で死んだ者や心を病んだ者が出た。教団は解散させられ、綾部と亀岡の神殿や施設は、ダイナマイトで爆破されて跡形もなく壊された。
1942年、二審の大阪控訴院は、治安維持法の罪については、大本は国体を変えることを目的とする結社ではないとして無罪とし、不敬の罪だけを有罪とした。王仁三郎は保釈されたが、教団が自由に活動できるようになったのは、1945年の敗戦のあとだった。大本事件は、国家が宗教の教えそのものを裁いた、近代の日本で最大の宗教弾圧として記憶されている。