概要
1967年5月27日、オーストラリアの有権者は、憲法から先住民を差別する二つの条文を消すかを問う国民投票で、九割を超える賛成を示した。国勢調査の人口に先住民を数えないという条文と、連邦政府が先住民のための法律を作れないという条文である。国民投票としては、この国で最も高い賛成の率だった。これで市民権や選挙権が与えられた、と語られることが多いが、それは誤りである。変わったのは連邦が乗り出せるようになったことで、土地の権利をめぐる争いは、それから始まった。
場所
-35.28°N 149.13°E · オーストラリア
本文
1901年にできたオーストラリアの憲法は、先住民について二つのことを定めていた。一つは、連邦は「アボリジナルの人々を除く」あらゆる人種について法律を作れる、という条文である。先住民のことは州が決めるものとされた。もう一つは、国と州の人口を数えるときに先住民を数えない、という条文だった。
1950年代から、先住民と先住民以外の人々がともに加わる運動が、この二つを消すよう求めてきた。十万人を超える署名が議会に届けられた。1967年5月27日、改正を問う国民投票が行われ、90.77パーセントが賛成した。オーストラリアの憲法の改正は、国民の過半数と、州の過半数の両方で賛成を得なければならず、44回の提案のうち8回しか通っていない。その中で、これほどの賛成を得たものは他に無い。
この国民投票で、先住民が市民権や選挙権を得た、とよく言われる。これは誤りである。連邦の選挙権は1962年にすべての先住民に認められていた。変わったのは、連邦が先住民のための法律と予算を持てるようになったことと、人口に数えられるようになったことだった。
大きな賛成を得たにもかかわらず、連邦はすぐには動かなかった。土地を返す法律は、1976年の北部準州の法まで待たなければならない。それでも、この投票は、先住民とそうでない人々が一緒に国を変えた出来事として記憶され、その後のアボリジナル・テント大使館やマボ判決へと続く運動の出発点になった。