ヘラクレイオス
概要
ササン朝に勝った直後、イスラム軍に東方の領土を奪われた。公用語をギリシア語に改める。
所属
東ローマ帝国関わったできごと(1)
ヘラクレイオスの治世610年 · 当人本文
ヘラクレイオスは575年ごろ、アルメニア系の軍人の家に生まれた。同じ名の父は、北アフリカのカルタゴに置かれた総督で、帝国の西の要を任されていた。

7世紀はじめの帝国は、崩れかけていた。602年、兵の反乱で皇帝マウリキウスが殺され、百人隊長あがりのフォカスが帝位を奪った。フォカスの統治は恐怖で知られ、貴族の処刑が相次いだ。ササン朝ペルシアの王ホスロー2世は、恩人マウリキウスの仇を討つと称して大軍を送り込み、東の国境は破れた。
608年、父ヘラクレイオスはフォカスに反旗を翻した。息子のヘラクレイオスは艦隊を率いてカルタゴを発ち、610年秋にコンスタンティノープルに着いた。都の人びとはフォカスを見捨て、フォカスは捕らえられて処刑された。ヘラクレイオスは同じ年の10月、皇帝に即位した(ヘラクレイオスの治世)。

皇帝になっても、状況はさらに悪くなった。ペルシア軍は613年にアンティオキアを、614年にエルサレムを落とした。エルサレムでは多くの住民が殺され、キリストが架けられたとされる聖十字架がペルシアへ持ち去られた。619年ごろまでにはエジプトも奪われた。帝国の穀物を支えてきたエジプトを失い、コンスタンティノープルへのパンの配給は止まった。北からはアヴァール人とスラヴ人がバルカン半島に押し寄せていた。ヘラクレイオスは一時、都を捨ててカルタゴへ移ることさえ考えたと伝えられる。
ヘラクレイオスは耐え、立て直しに取りかかった。総主教セルギオスは教会の金銀の器を戦費として皇帝に貸した。役人の給料を減らし、軍を再編した。そして622年、自ら軍を率いて小アジアへ出た。皇帝が親征するのは、長いあいだ途絶えていたことだった。

ヘラクレイオスの戦い方は、敵の正面を叩くのではなく、背後へ回ることだった。黒海の南岸からアルメニアとカフカスへ入り、そこからペルシアの本土を突いた。626年には、アヴァール人とペルシア軍がコンスタンティノープルを両側から囲んだ。皇帝は都に戻らず、守りを総主教と貴族に任せて東での戦いを続けた。都の城壁と艦隊は持ちこたえ、包囲は解けた。
627年の末、ヘラクレイオスはチグリス川の上流、古都ニネヴェの近くでペルシア軍を破った。ホスロー2世の宮殿へ迫ると、ペルシアの宮廷は動揺し、628年、ホスローは息子に倒されて殺された。新しい王は和を求め、帝国は奪われた土地をすべて取り戻した。630年、ヘラクレイオスは返還された聖十字架を自らエルサレムへ運び、もとの場所に戻した。皇帝の生涯でいちばん輝かしい場面である。この頃から、ヘラクレイオスはギリシア語の「バシレウス」を皇帝の正式な称号として使いはじめた。
勝利は長く続かなかった。20年以上に及ぶ戦争で、帝国もペルシアも疲れ切っていた。その南から、ムハンマドの死後にまとまったアラビア半島の軍が現れた。アラブ軍はシリアへ入り、636年、ヤルムーク川のほとりで帝国の大軍を破った(ヤルムークの戦い)。シリアとパレスチナは失われ、エルサレムも数年のうちに明け渡された。アラビア語の史書は、ヘラクレイオスがシリアを去るとき「さらば、シリアよ。敵にとってなんと良い国であることか」と言ったと伝えている。後の記録なので、そのまま本人の言葉とは言いにくい。同じ頃、ペルシアもアラブ軍に敗れ、やがて滅んでいく。

ヘラクレイオスは、宗教の対立でも帝国をまとめようとした。キリストの意志は一つだとする教えを示し、エジプトやシリアのキリスト教徒と都の教会の溝を埋めようとしたが、かえって新たな論争を生んだ。私生活では、最初の妻を亡くしたあと姪のマルティナと結婚し、教会と民衆から強い反発を受けた。
晩年のヘラクレイオスは病み、水を恐れるようになったという。総主教ニケフォロスの史書によれば、ボスポラス海峡を渡るとき、船を並べて橋にし、両側を木の枝で覆って水が見えないようにしたとされる。641年2月11日に死んだ。

ヘラクレイオスの治世のあいだに、帝国は姿を変えた。ラテン語に代わってギリシア語が行政の言葉として定着していったのも、この頃のことだとされる。広い地中海の帝国は、小アジアとバルカン、エーゲ海を中心とする国になった。歴史家はしばしばこの時代を、古代のローマ帝国から中世の東ローマ帝国への境目とみなしている。