できごと

ベリサリウスのローマ奪還

Belisarius retakes Rome
AD536年12月9日
重要度 3
フィン・ウゴル系タイガの狩猟採集民ササン朝ペルシア東ローマ帝国サーミ西ゴート王国フランク王国東ゴート王国アクスム王国ヒムヤル王国マクリアガーナ王国サクソン人ブルグント族SvevesAnglo-Saxonsテューリンゲン族ブレンミュエス西ローマ帝国BasksAD536年12月9日ローマ
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD536年12月9日の版図を描いています(19勢力)。

概要

60年ぶりにローマ皇帝の軍がローマに入った。翌年、東ゴートが一年囲み、水道を切った。以後20年の戦争でイタリアは荒れ、ローマの人口は数万に落ちる。取り戻したものは、取り戻す前より小さかった。

場所

ローマ
41.89°N 12.49°E · イタリア・ラツィオ州

関わった人(1)

ベリサリウスAD500年頃–AD565年 · 将軍

本文

476年に西のローマ皇帝が退けられてから、イタリアはゲルマン人の王たちのものになっていた。493年からは東ゴートの王テオドリックが治め、ローマの元老院や役所の仕組みをそのまま残して、ゴート人とローマ人を並べて治めた(テオドリックのイタリア王国)。しかしテオドリックが526年に死ぬと、王家は内輪もめに陥る。娘で摂政のアマラスンタが535年に殺されると、コンスタンティノープルの皇帝ユスティニアヌス1世は、これを口実にイタリアへ兵を送ることを決めた。かつてのローマ帝国の西半分を取り戻す、という大きな計画の一部だった(ユスティニアヌスの再征服)。

将軍は、その2年前に北アフリカのヴァンダル王国をわずかな兵で滅ぼしていたベリサリウスである。535年、ベリサリウスは7500ほどの兵でシチリアに上陸し、ほとんど戦わずに島を取った。翌536年、イタリア半島に渡って北へ進み、ナポリを囲む。城壁は固く、包囲は長引いたが、兵たちは使われていなかった水道の管の中を這って街に入り込み、ナポリを落とした。ゴートの王テオダハドは臣下に見限られて殺され、新しい王ウィティギスは兵を集めるために北へ退いた。

ベリサリウスのモザイク画
ベリサリウスのモザイク画Wikimedia Commons Meister von San Vitale in Ravenna · Public domain

536年12月9日、ベリサリウスはローマに入った。ローマの市民と教皇は、皇帝の軍を迎え入れることを選び、守っていたゴートの兵は、ベリサリウスが南の門から入るのと入れ違いに、北の門から出て行った。皇帝の軍がローマに入ったのは、60年ぶりのことだった。ベリサリウスは、荒れていた城壁の修理と、食料の運び込みを急いだ。

翌537年2月、ウィティギスは大軍を率いて戻り、ローマを囲んだ。ベリサリウスの書記として従軍していた歴史家プロコピオス(プロコピオス)は、ゴートの兵を15万と書いているが、これは大げさだと考えられている。ゴートはローマに水を引いていた水道を、すべて断ち切った。街の粉ひきの水車が止まると、ベリサリウスはテヴェレ川に船を並べてつなぎ、その間に水車を取り付けて川の流れで粉をひかせた。浴場の水も止まった。ゴートの兵が城壁に押し寄せたとき、ハドリアヌス帝の墓を砦にして守っていた兵たちは、墓を飾っていた大理石の像を砕いて投げ落としたという。

ジャック=ルイ・ダヴィッドによる『施しを乞うベリサリウス』。出所不明の民間伝説にしたがって、目をくり抜かれた物乞いとして描かれている。
ジャック=ルイ・ダヴィッドによる『施しを乞うベリサリウス』。出所不明の民間伝説にしたがって、目をくり抜かれた物乞いとして描かれている。Wikimedia Commons Jacques-Louis David · Public domain

包囲は1年と9日続いた。囲む側も囲まれる側も、飢えと疫病に苦しんだ。ベリサリウスは援軍を待ちながら、少ない兵で城の外へ打って出ては戻ることを繰り返した。皇帝の別の軍が東の海岸の町を取ってゴートの本拠ラヴェンナを脅かすと、538年3月、ゴートは囲みを解いて退いた。540年、ベリサリウスはラヴェンナに入り、ウィティギスを捕らえてコンスタンティノープルに送る。ゴートの人びとはベリサリウスを西の皇帝に立てようと申し出たが、ベリサリウスは受けるふりをして城門を開けさせ、自分は皇帝にならなかった。それでもユスティニアヌスは、将軍の力が大きくなりすぎることを警戒し、ペルシアとの戦争を理由に呼び戻した。

戦争はそれで終わらなかった。541年に王となったトティラがゴートを立て直し、イタリアの大半を取り返す。同じころ、帝国は大きな疫病に襲われ(ユスティニアヌスの疫病)、兵も金も足りなかった。546年の暮れ、トティラはローマを取り、城壁の一部を壊して住民を外へ移した(トティラのローマ占領)。プロコピオスによれば、ローマは40日ほどの間、人の住まない街になった。再びイタリアに送られていたベリサリウスはローマを取り返したが、十分な兵を与えられないまま、548年に呼び戻される。ローマは再びトティラの手に落ちた。552年、皇帝の宦官の将軍ナルセスが大軍を率いてトティラを破り、トティラは戦いの傷で死んだ。ゴートの抵抗はその後もしばらく続いた。

ユスティニアヌスの疫病に関わる図版:Plaguet03
ユスティニアヌスの疫病Wikimedia Commons Josse Lieferinxe · Public domain

20年近い戦争で、イタリアは荒れ果てた。都市は何度も奪い合われ、畑は焼かれ、飢えと疫病が人を減らした。元老院の古い家々は没落し、ローマの人口は数万人にまで落ちたと推定されている。断ち切られた水道の多くは直されず、人びとは水の得やすいテヴェレ川の近くに集まって住むようになり、丘の上の多くは畑や廃墟になった。568年、北からランゴバルドの人びとが攻め込み(ランゴバルドのイタリア侵入)、帝国はイタリアの北と中部の多くを、また失っていく。ベリサリウスが取り戻したローマは、取り戻す前より、ずっと小さく貧しい街になっていた。

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