ユスティニアヌスの疫病

概要
記録に残る最初のペストの大流行。死者の数は史料によって大きく違うが、再征服の勢いはここで止まった。
場所
41.01°N 28.98°E · トルコ・イスタンブール
本文
541年、エジプトのナイル河口に近い港町ペルシオンで、奇妙な病が出た。同時代の歴史家プロコピオスによれば、病はそこからアレクサンドリアへ、パレスティナへと広がり、翌542年の春に帝都コンスタンティノープルに達した。記録に残るなかで最初の、ペストの大流行である。
当時の皇帝ユスティニアヌス1世は、旧ローマ帝国の西半分を取り戻す戦争の最中にあった(ユスティニアヌスの再征服)。ベリサリウスの軍は533年にヴァンダル王国を滅ぼして北アフリカを回復し、イタリアでは東ゴート王国と戦っていた。都ではハギア・ソフィアの完成が537年に完成したばかりで、ローマ法大全の編纂も終わっていた。帝国は自信に満ちていたといってよい。

プロコピオスは、自分の目で見た都の様子を書いている。患者は熱を出し、股の付け根や腋の下が腫れ上がり、数日のうちに死ぬ者が多かった。都での流行は4か月続き、死者は日に5000人、やがて1万人を超えたという。この数字は誇張とみる研究者が多いが、混乱ぶりは他の史料とも一致する。墓を掘る人手が足りず、皇帝は役人に埋葬を命じた。対岸のシュカイの城壁の塔は屋根を外して死体を詰め込まれ、その臭いが町に漂ったと書かれている。
皇帝自身も感染し、鼠径部が腫れたが、生き延びた。この間、政務は皇后テオドラが取り仕切ったとされる。病は帝国の外へも広がり、ペルシアにも、イタリアやガリアにも及んだ。ガリアの司教トゥールのグレゴリウスは、6世紀後半の流行を書き残している。シリアの教会史家エウァグリオスは子どものころに罹って助かり、のちに繰り返す流行で妻や子、孫を失ったと書いた。ペストは一度で去らず、その後おおよそ750年ごろまで、十数回にわたって地中海世界を襲い続けた。
この病は、ネズミなどの小さな獣についたノミが人を噛んでうつすことが多い。穀物を運ぶ船にはネズミがつきものだった。エジプトの穀物を帝都へ運ぶ船の道は、病を運ぶ道でもあった。エジプトに来る前、どこで病が生まれたのかは分かっていない。プロコピオスはエジプトから始まったと書くだけで、遺伝子の研究からは中央アジアの山地に起源を求める見方が有力になっている。
影響の大きさについては、研究者の意見がはっきり分かれている。帝国の人口の何割もが失われ、税を納める農民と兵士が減ったことで、再征服は行き詰まり、帝国はその後のペルシアとの戦争やイスラムの勢力の拡大(イスラムの大征服)に耐える力を弱めた、と考える立場がある。実際、542年以後、イタリアではトティラのもとで東ゴートが盛り返し(トティラのローマ占領)、戦争はさらに十年以上長引いた。544年には、皇帝が賃金と物価の値上がりを禁じる勅令を出しており、人手が足りなくなった様子がうかがえる。

一方で、2019年ごろからは、影響が過大に見積もられてきたという批判も強くなった。パピルスの文書や貨幣、法令の数などを調べても、6世紀半ばにはっきりした落ち込みが見えないという指摘である。また536年ごろからは、火山の噴火が原因とされる寒冷化が数年続いており、不作や社会の混乱を病だけのせいにはできない。死者の割合を確かめる手立ては無く、議論は決着していない。
ユスティニアヌスは565年に没するまで帝位にあり、イタリアの再征服も554年には一応の決着を見た。しかし彼が亡くなって3年後の568年、ランゴバルド人がイタリアに入り、半島の多くを奪う。取り戻した西の領土を守り抜く力は、帝国には残っていなかった。
病の正体については、21世紀に入って答えが出た。ドイツのバイエルン地方などの6世紀の墓から取り出した歯のDNAから、ペスト菌が見つかったのである。14世紀の黒死病を起こしたのと同じ種の菌だが、系統は別で、この系統はのちに絶えたことも分かった。ペストは、時代を隔てて少なくとも二度、別々にヨーロッパを襲ったことになる。