ニカの乱
概要
戦車競走の青組と緑組が手を組み、「勝て(ニカ)」と叫んで街を焼き、別の皇帝を立てた。逃げようとした皇帝を皇后テオドラが「帝衣はよい経帷子だ」と止め、ベリサリウスが競技場で3万人を殺した。焼けた聖堂の跡にハギア・ソフィアが建つ。
場所
41.01°N 28.98°E · トルコ・イスタンブール
関わった人(3)
ユスティニアヌス1世AD482年頃–AD565年11月14日 · 皇帝テオドラAD500年頃–AD548年 · 皇后ベリサリウスAD500年頃–AD565年 · 鎮圧本文
コンスタンティノープルの大競技場は、5万人とも10万人ともいわれる観客を収める、都で最大の集まりの場だった。皇帝の宮殿と隣りあい、皇帝は専用の席から競技を見た。人気を集めたのは、4頭立ての戦車の競走である。
戦車は、青、緑、白、赤の組に分かれて走った。6世紀には、なかでも青組と緑組が大きな力を持っていた。組は御者や馬を抱えるだけの団体ではなかった。熱狂的な支持者たちは、組の色の服を着て、独特の髪型をし、競技場の外でも徒党を組んで争った。宮廷の役人や皇帝も、どちらかの組をひいきにした。ユスティニアヌス1世は、即位する前から青組の後ろ盾として知られていた。

532年1月、町で起きた騒ぎで人が殺され、青組と緑組の何人かが死刑を言い渡された。ところが処刑の場で絞首台が壊れ、青組と緑組から一人ずつが生き残って、近くの教会に逃げこんだ。人びとは、二人の助命を皇帝に求めた。
1月13日、競技場で戦車競走が開かれた。観客は、競走のたびに皇帝に向かって助命を叫んだが、答えはなかった。22回目の競走が終わったとき、ふだんは争っている青組と緑組が、声をそろえて叫んだ。ニカ、ニカ。勝て、という意味の、競技場でふだん自分の組に向けて叫ぶ声援である。群衆は宮殿へ押し寄せ、役所に火を放った。

それから5日のあいだ、都は燃えた。元老院の建物、ゼウクシッポスの浴場、宮殿の正門、そして大聖堂ハギア・ソフィアと、隣のハギア・エイレーネーの教会が焼け落ちた。暴徒は、重税で憎まれていた長官カッパドキアのヨハネスや、法学者トリボニアヌスら高官の罷免を求めた。皇帝はそれを認めたが、騒ぎは収まらなかった。
1月18日、ユスティニアヌスは自ら競技場に現れ、福音書を手に、罪を問わないと約束した。群衆はこれを拒み、かつての皇帝アナスタシウス1世の甥ヒュパティオスを競技場へ連れ出して、新しい皇帝に担ぎ上げた。

宮殿では、皇帝と側近たちが逃げる相談をしていた。港には船が用意されていた。そのとき、皇后テオドラが口を開いた、と歴史家プロコピオスは書いている。逃げたいのなら、船も金もある。だが、助かったとして、生きのびたことを後悔しないだろうか。一度帝位についた者が亡命者として生きるのは耐えがたい。私は、帝衣こそがよい死装束であるという古い言葉に賛成する。テオドラは、競技場の熊使いの娘として生まれ、自身も舞台に立っていた人である。この言葉が本当にそのとおりに語られたのかは分からないが、皇帝は逃げずに戦うことに決めた。
その日の午後、宦官の将軍ナルセスが金を持って競技場へ入り、青組の指導者たちに、皇帝が長く青組をひいきにしてきたことを思い出させたという。青組の一部が離れていった。そこへ、ペルシアとの戦いから戻っていた将軍ベリサリウスと、ムンドゥスの兵が、二方向から競技場の観客席へ突入した。出口はふさがれ、逃げ場はなかった。プロコピオスは、この日殺された者を3万人以上と書いている。ヒュパティオスは捕らえられ、翌日処刑された。

反乱が鎮められた翌月、焼けたハギア・ソフィアの跡で、新しい聖堂の工事が始まった。2人の学者肌の建築家が設計した、巨大なドームを持つ聖堂は、5年あまりで完成する(ハギア・ソフィアの完成)。完成した堂内に入ったユスティニアヌスは、ソロモンよ、私は汝に勝った、と言ったという伝承がある。
ニカの乱を乗り越えたユスティニアヌスは、その後、思うままに国を動かすようになった。同じころ、法の集大成(ローマ法大全)の編纂が進み、翌533年には、ベリサリウスが北アフリカのヴァンダル王国へ遠征して、これを滅ぼした。ローマ帝国の西の領土を取り戻す戦いの始まりである。競技場の組は、その後も都の暮らしに残ったが、皇帝をここまで追いつめることは二度となかった。