コンスタンティノープル包囲とギリシア火

概要
ウマイヤ朝の大軍を、城壁と燃える液体を吹きつける兵器で退けた。イスラム勢力の東欧進出はここで止まる。
場所
41.01°N 28.98°E · トルコ・イスタンブール
関わった人(1)
レオン3世(イサウリア朝)AD685年頃–AD741年6月18日 · 退けた本文
7世紀の半ばから、イスラームの勢力はシリア、エジプト、北アフリカを東ローマ帝国から奪い取った。ダマスクスに都を置くウマイヤ朝(ウマイヤ朝の成立)にとって、最後に残る大きな目標が、帝国の都コンスタンティノープルだった。670年代にもアラブ軍は数年にわたってこの都を脅かしたが、果たせずに退いている。
8世紀のはじめ、帝国は内乱に揺れていた。20年あまりのあいだに帝位が7度も入れ替わり、そのたびに軍や宮廷が割れた。カリフのスライマーンはこの好機を逃さず、弟のマスラマに大軍を預けて送り出した。陸軍は小アジアを横断し、艦隊はエーゲ海を北へ進んだ。兵は10万を超え、船は1800隻にのぼったと年代記は記すが、これは誇張とみられている。それでも、ウマイヤ朝が持てる力を傾けた遠征だったことは確かである。

アラブ軍が迫るなか、717年3月、小アジアの軍団を率いる将軍が都に入り、帝位についた。レオン3世(イサウリア朝)である。レオンは軍人として小アジアでアラブ軍と渡り合ってきた経験を持ち、包囲に備えて食糧を蓄え、城壁を固めた。
717年の夏、マスラマの軍はヨーロッパ側に渡り、陸の側から都を囲んだ。陸の側を守るのは、5世紀にテオドシウス2世が築いた城壁である。幅の広い堀の内側に低い外壁、さらにその内側に高い内壁と、三重の守りが半島の付け根を端から端までふさいでいた。塔は100近く並んでいた。当時の攻城の技術で、これを力ずくで破ることはほとんどできなかった。アラブ軍は城壁の外に陣を築き、兵糧攻めを図った。

海からの包囲は、もっと危うかった。アラブの艦隊が都の海の守りを絶てば、都は飢える。ここで力を発揮したのが、「ギリシア火」と呼ばれる兵器である。670年代、シリアから亡命してきたカリニコスという技術者が帝国にもたらしたと伝えられる。船首に据えた管から、燃える液体を勢いよく吹きつける。その炎は水の上でも消えず、木造の船と乗組員を焼いた。帝国の船は、ボスポラス海峡を北へ進もうとするアラブの船団に襲いかかり、これを焼き払った。組成は帝国の最高機密として限られた者だけに伝えられ、そのため後に失われた。石油に樹脂などを混ぜたものだったと推測されているが、正確なところはいまも分からない。
冬が来ると、包囲する側が追い詰められた。717年から翌年にかけての冬は異常に寒く、雪が100日にわたって地面を覆ったと年代記は記している。アラブ軍の陣では、馬やラクダが死に、兵は飢えと寒さで次々に倒れた。死んだ家畜を食べ、さらにはもっとおぞましいものまで口にしたという記録まである。

718年の春、エジプトと北アフリカから補給の船団が到着した。ところが、その乗組員の多くはエジプトのキリスト教徒で、夜のうちに小舟で都へ逃げ込み、船団の位置を帝国に知らせた。レオンはすぐにギリシア火を積んだ船を出し、補給船団を壊滅させた。陸では、帝国と結んだブルガール人の軍が北からアラブ軍を襲い、大きな損害を与えた。
その間に、遠征を命じたカリフのスライマーンは亡くなっていた。後を継いだウマル2世は、718年8月、包囲を解いて引き上げを命じた。帰路の艦隊は嵐に遭い、さらに多くの船を失った。故郷に帰り着いた兵と船は、出発時のわずかな一部だったと伝えられる。
これが、アラブ軍がコンスタンティノープルを本格的に包囲した最後になった。ウマイヤ朝はこの敗北で大きな痛手を受け、その後も小アジアへの攻撃は続いたものの、都そのものを脅かすことはなかった。東ローマ帝国はそれから700年以上、ヨーロッパの東の入口を守り続けることになる。西のフランク王国でのトゥール・ポワティエの戦い(トゥール・ポワティエ間の戦い)よりも、こちらのほうがイスラーム勢力のヨーロッパへの広がりを止めるうえで決定的だった、と考える歴史家は多い。

都を救ったレオン3世は、その後、聖像を崇めることを禁じる政策を始め、帝国を100年以上にわたる論争に巻き込むことになる(聖像破壊論争)。コンスタンティノープルが初めて外敵の手に落ちるのは1204年、西からやって来た十字軍によってであった(第4回十字軍のコンスタンティノープル略奪)。