ヘラクレイオスの治世
概要
ササン朝に勝った直後、疲れきったところをイスラム軍に突かれて東方を失う。公用語がラテン語からギリシア語に変わる。
場所
41.01°N 28.98°E · トルコ・イスタンブール
関わった人(1)
ヘラクレイオスAD575年頃–AD641年2月11日 · 当人本文
602年、東ローマ帝国の皇帝マウリキウスが、ドナウの前線で反乱を起こした兵士たちに殺された。帝位を奪った百人隊長フォカスは、恐怖の政治で反対派を次々に処刑し、帝国は内側から崩れていった。マウリキウスに恩のあったササン朝ペルシアの王ホスロー2世は、その仇を討つという名目で国境を越え、東方の属州へなだれ込んだ。
帝国の西の端、北アフリカのカルタゴを治めていたのが、総督の老ヘラクレイオスだった。彼は息子のヘラクレイオスに艦隊を預け、コンスタンティノープルへ向かわせた。610年10月、艦隊が都に着くと、フォカスはあっけなく見捨てられ、捕らえられて処刑された。35歳ほどのヘラクレイオスは、その日のうちに戴冠した。

だが受け継いだのは、壊れかけた帝国だった。ペルシア軍はアンティオキアを落とし、614年にはエルサレムを攻め落とした。キリストが架けられたと信じられた聖十字架は、ペルシアの都クテシフォンへ運び去られた。619年にはエジプトも失い、都の民を養っていた穀物の船が来なくなった。北からはアヴァール人とスラヴ人がバルカンを荒らした。ヘラクレイオスは一時、都を捨てて故郷のカルタゴへ移ろうとまで考え、総主教セルギオスに説得されて思いとどまったと伝わる。
ヘラクレイオスは、正面から失地を取り返すのではなく、敵の本拠を突く道を選んだ。役人の給料を半分にし、教会から金銀の器を借りて溶かし、貨幣に鋳直して兵を集めた。622年の春、皇帝自ら軍を率いて小アジアへ出陣する。皇帝が自分で遠征に出るのは、200年以上なかったことだった。同じ年、遠くアラビアでは、ムハンマドがメッカからメディナへ移っている(ヒジュラ(聖遷))。

ヘラクレイオスは小アジアからアルメニア、カフカスへと回り込み、ペルシアの領土の奥で戦った。626年、留守の都がアヴァール人とペルシア軍に陸と海から包囲されたが、セルギオスと守備の将軍たちが守りきった。ヘラクレイオスは西突厥と手を結び、627年12月、ティグリス川の上流、古都ニネヴェの廃墟の近くでペルシア軍を破った。翌628年、ホスロー2世は自分の息子に倒されて殺され、ペルシアは講和を求めた。
帝国は失った東方の属州をすべて取り戻した。630年、ヘラクレイオスは返還された聖十字架を携えてエルサレムに入り、元の場所に納めた。キリスト教世界の救い手として、皇帝はその頂点に立った。
だが、勝利は長く続かなかった。30年近い戦争で、東ローマとペルシアはどちらも力を使い果たしていた。634年、アラビア半島をまとめたイスラームの軍がシリアに入ってくる。636年8月、ヤルムーク川のほとりで帝国の大軍が敗れ(ヤルムークの戦い)、シリアとパレスチナの守りは崩れた。同じ年、ペルシアもカーディシーヤで敗れている(カーディシーヤの戦い)。エルサレムは638年ごろに降伏し、取り戻したばかりの聖十字架は、その前にコンスタンティノープルへ移された。639年からはエジプトへの攻撃が始まった。

ヘラクレイオスは晩年、帝国の内側の分裂にも手を焼いた。キリストの本性をめぐって、エジプトやシリアの教会はコンスタンティノープルの教会と対立していた。ヘラクレイオスとセルギオスは、キリストの意志は一つだという折衷の教えを出して和解を図ったが、どちらの側も納得させられなかった。姪のマルティナとの結婚も、近親の婚姻として教会と民衆の反感を買っていた。晩年の皇帝は水を恐れ、ボスポラス海峡を渡るときは、船を並べた橋の両側に生け垣を植えて水面を見えないようにした、という話も伝わる。641年2月に亡くなった時、エジプトの首都アレクサンドリアはまだ持ちこたえていたが、翌年には明け渡された。
ヘラクレイオスの時代に、帝国の姿は大きく変わった。帝国の公文書や法律はこの頃からほぼギリシア語で書かれるようになり、629年からは皇帝の正式な称号として、ラテン語の「アウグストゥス」に代わってギリシア語の「バシレウス」が使われはじめた。ラテン語を話す西方とのつながりは薄れ、帝国はギリシア語の、正教のキリスト教の国として残ることになる。シリアとエジプトを失ったことで、帝国の土地は小アジアとバルカンに縮んだが、そのぶん住民の言葉と信仰はまとまった。

後世の人々は、ヘラクレイオスを二つの顔で記憶した。ペルシアを倒し聖十字架を取り戻した英雄と、その勝利の果実をすべて失った不運な皇帝と。どちらも同じ一人の治世に起きた。東ローマ帝国はそれでも、このあと800年あまり続いていく(東ローマ帝国)。