ユスティニアヌス1世
概要
地中海の旧領を一時取り戻し、ローマ法を集大成した。ハギア・ソフィアを建てる。
所属
東ローマ帝国関わったできごと(6)
アテナイのアカデメイア閉鎖AD529年 · 命令ニカの乱AD532年1月13日 · 皇帝ユスティニアヌスの再征服533年 · 命令ローマ法大全AD534年 · 命令ハギア・ソフィアの完成AD537年 · 命令絹の秘密AD552年 · 命じた本文
ユスティニアヌスは482年ごろ、バルカン半島の内陸、いまの北マケドニアのスコピエに近い村で、農民の家に生まれた。このあたりはラテン語を話す地域で、彼はラテン語を母語とした最後の東ローマ皇帝とも言われる。運命を変えたのは、母の兄ユスティヌスだった。ユスティヌスは若いころ、貧しさから逃れて都コンスタンティノープルに出て兵士となり、腕一本で皇帝の近衛隊の長にまで上った人物である。子のなかった叔父は甥を都に呼び寄せ、最高の教育を受けさせた。

518年、皇帝が跡継ぎを決めないまま死ぬと、ユスティヌスが皇帝に推された。すでに60代の半ばで、学問はなく、文字も書けなかったと伝えられる。署名のために、文字の形をくり抜いた木の板を当てて筆でなぞっていた、という話が、のちの歴史家プロコピオスの書いた暴露の書に出てくる。真偽はともかく、叔父の治世の実際の舵取りをしたのは、30代の半ばの甥ユスティニアヌスだった。
このころ、ユスティニアヌスは一人の女性と出会う。テオドラである。テオドラは、競技場で熊の世話をする男の娘で、舞台に立つ芸人だった。当時の法は、元老院の身分の者が女優と結婚することを禁じていた。ユスティニアヌスは叔父に頼んでこの法を改めさせ、テオドラを妻に迎えた。527年、叔父の死によって45歳ほどで単独の皇帝となると、テオドラも皇后として並び立った。

ユスティニアヌスの頭にあったのは、ローマ帝国を昔の姿に戻すことだった。法も、領土も、信仰も、一つのローマのもとにまとめ直す。最初に手をつけたのが法である。即位の翌年、法律家トリボニアヌスらに命じて、何百年にもわたって積み重なり、互いに矛盾することもあったローマの皇帝の法令と法学者の学説を整理させた。数年のうちに、勅法の集成、学説の集成、法学の教科書がまとめられた。のちにローマ法大全と呼ばれるものである。
だが、532年、都で大きな反乱が起きた。競技場の戦車競走を応援する二つの党派が、重い税と役人の横暴への怒りで手を結び、「勝て」(ニカ)と叫んで宮殿に押し寄せ、町に火を放った(ニカの乱)。ユスティニアヌスは船で都から逃げることまで考えた。そのとき、テオドラが、帝衣は最上の死装束である、という古い言葉を引いて、逃げずに踏みとどまるよう説いたとプロコピオスは書いている。将軍ベリサリウスらの兵が競技場に集まった群衆を囲み、数万人を殺して、反乱は鎮められた。

焼け落ちた大聖堂の跡には、わずか5年ほどで、巨大な円屋根を持つ新しい教会が建てられた。537年に完成したハギア・ソフィアの完成である。それまで誰も見たことのない大きさの円屋根が、窓から入る光の上に浮かんでいるように見えた。
外では、西の旧領の回復に乗り出した。533年、ベリサリウスは北アフリカのヴァンダル王国をわずか1年ほどで滅ぼした。続いてイタリアの東ゴート王国に攻め込み、ローマを奪い返した。だが、イタリアの戦いは20年近く長引き、町と畑は荒れ果てた。スペインの南の沿岸も取り戻し、地中海は再びローマの海のように見えた(ユスティニアヌスの再征服)。その一方で、東のペルシアとは、金を払って和を結ばなければならなかった。
541年、エジプトから都に疫病が入った。のちの研究で、ペストだったことが分かっている(ユスティニアヌスの疫病)。都では一日に何千人もが死んだと伝えられ、ユスティニアヌス自身もかかったが、命をとりとめた。人が減れば、税も兵も減る。疫病は、西の征服と都の建設に注ぎ込んだ帝国の力を、根元から削った。548年には、テオドラが病で亡くなった。

ユスティニアヌスは、ほとんど眠らない皇帝と呼ばれた。夜遅くまで書類を読み、神学の議論にも熱中した。キリストの本性をめぐって割れていた教会を一つにしようと、自ら神学の論文を書き、会議を開いたが、溝は埋まらなかった。古い異教の学問にも厳しく、アテネで哲学を教えていた学者たちが教えることを禁じられ、ペルシアへ去っている。
565年11月、ユスティニアヌスは80歳を超えて亡くなった。38年に及ぶ治世だった。取り戻した領土は長く持たなかった。死の3年後、北からランゴバルド人がイタリアに入り、半島の大半を奪っていく。7世紀には、東の領土の多くがイスラームの軍の手に落ちた。

残ったのは、建物と法だった。ハギア・ソフィアは、のちにモスクとなり、いまもイスタンブルに立っている。法の集成は西ヨーロッパでいったん忘れられたが、11世紀にイタリアのボローニャで学説の集成の写本が見直され、そこからヨーロッパの大学で法学が始まった。いま多くの国の民法には、その考え方が受け継がれている。
同じ時代を書いたプロコピオスは、公式の歴史書と、皇帝の建てた建物をたたえる書物を書きながら、ひそかにプロコピオス『秘史』を書き、ユスティニアヌスを人の姿をした悪魔とまで罵った。偉大な皇帝と、国を疲れさせた暴君と。同じ人物を見た同じ歴史家の二つの筆が、どちらも残っている。