トティラ
概要
バドゥイラ。541年、負け続けていた東ゴートの王に。イタリアの奴隷と農民を軍に入れ、ベリサリウスから半島を取り返し、ローマを二度取った。ナルセスが来て、タギナエで敗れ、逃げる途中で死んだ。「彼は敵の女を犯させなかった」とプロコピオスが書いた。
所属
東ゴート王国関わったできごと(2)
ユスティニアヌスの再征服533年 · 東ゴートの王トティラのローマ占領AD546年12月17日 · 王本文
東ゴートの王。本名はバドゥイラで、自ら発行した貨幣にはこの名が刻まれている。トティラは、彼を詳しく記録した東ローマの歴史家プロコピオスが用いた呼び名である。生年は分からない。先々代の王イルディバドの甥にあたる。

彼が王になったとき、イタリアの東ゴート王国は終わりかけていた。テオドリック大王が築いた王国は(テオドリックのイタリア王国)、大王の死後に内紛で揺らぎ、535年からユスティニアヌス1世の送った東ローマ軍に攻められていた。540年には将軍ベリサリウスが都ラヴェンナを落とし、王ウィティギスを捕らえて連れ去った。残ったゴート人は北イタリアのパヴィアやヴェローナに拠って王を立てたが、イルディバドは541年に暗殺され、次の王エラリックもわずか数か月で殺された。541年の秋、ゴートの戦士たちは若いバドゥイラを王に選んだ。手元に残っていた兵は数千ほどだったとされる。
東ローマにとって、時期は悪かった。ベリサリウスはペルシアとの戦争のために東へ呼び戻され、イタリアに残った将軍たちは互いに張り合い、兵の給料は遅れた。トティラは542年、ファエンツァ近くで東ローマ軍を破り、ついでフィレンツェ近くのムジェッロでも勝った。そのまま北を固めることはせず、南へ下ってイタリア半島の中部と南部を次々に取った。

彼の戦い方で目立つのは、イタリアの民衆を味方に引き込もうとしたことである。元老院議員などローマの大地主の土地を取り上げ、そこを耕す小作人から地代と税を直接集めた。地主のもとから逃げてきた奴隷や小作人を兵に加えた。東ローマの徴税役人の取り立てに苦しんでいた農民たちには、ゴートの王の方がましに見えた。少ない兵で10年戦い続けられたのは、この支えがあったからだと考えられている。
543年にはナポリを包囲して降らせた。飢えていた市民には、食べ物を一度に与えると死んでしまうと、少しずつ量を増やして与え、守備兵は無事に去らせたとプロコピオスは書く。南イタリアのカラブリアで、ゴートの護衛兵がローマ人の娘を犯したときには、兵の仲間たちが助命を嘆願したにもかかわらず、その兵を処刑し、財産を娘に与えたという。
544年、ベリサリウスがイタリアに戻ったが、兵も金も十分に送られなかった。帝国は東でペルシアと戦い、都はまだユスティニアヌスの疫病の打撃から立ち直っていなかった。546年12月、トティラは長い包囲の末にローマを落とした(トティラのローマ占領)。城門を守っていたイサウリア人の兵が、門を開けたのである。トティラは城壁を壊し、ローマを家畜の牧場にしてやると言ったが、ベリサリウスから、世界で最も美しい都を壊した者として後世に名を残すつもりかという手紙を受け取り、取り壊しを途中でやめたという。市民は町から連れ出され、ローマは数十日のあいだ空になったとプロコピオスは書いている。

翌547年、ベリサリウスは空になったローマを取り戻したが、548年にイタリアを去った。550年1月、トティラは再びローマを落とし、今度はそこに住民を呼び戻して、競馬を催した。さらにシチリアに渡り、サルデーニャとコルシカを取り、ギリシアの沿岸まで船を送った。だが551年、アドリア海のセナ・ガッリカ沖の海戦で東ローマの艦隊に敗れ、海の力を失った。
552年、ユスティニアヌスは宦官の将軍ナルセスに大軍を託した。70歳を超えたナルセスは、ランゴバルド人やヘルール人の傭兵を含む兵を連れて、陸路アドリア海沿いに南下してきた。両軍はアペニン山中のタギナエ(ブスタ・ガッロールム)で向き合った。援軍の到着を待つトティラは、金で飾った鎧を着て両軍のあいだに馬を進め、槍を空に投げては受け止め、馬を巧みに回してみせて時を稼いだ。援軍が着くと、ゴートの騎兵は突撃したが、半月形に構えた東ローマの弓兵の矢を浴びて崩れた。トティラは逃げる途中で深手を負い、近くの村カプラエで死んだ。戦場で射られて即死したという話もある。
後を継いだテイアも553年に敗れて死に、東ゴート王国は滅んだ。だが、20年近い戦争でイタリアは荒れ果て、東ローマの支配は長続きしなかった。568年にはランゴバルド人が北から侵入し(ランゴバルドのイタリア侵入)、半島の大半を奪っていく。

トティラについて私たちが知ることの多くは、敵である東ローマの側の歴史家が書いたものだ。そのプロコピオスが、彼の寛大さと公正さを繰り返し書き留めている。のちに教皇グレゴリウス1世は『対話』で、トティラがモンテ・カッシーノの修道院長ベネディクトゥスを訪ね、家臣に王の衣を着せて試したが見破られ、9年王として治め、10年目に死ぬと予言されたという話を伝えている。伝説ではあるが、王の在位はほぼそのとおりだった。