ユスティニアヌスの再征服
概要
北アフリカとイタリアを取り戻した。ただし戦費と疫病で国は疲れ、この領土は次の世代で失われる。
場所
44.42°N 12.20°E · イタリア・エミリア=ロマーニャ州
関わった人(3)
ユスティニアヌス1世AD482年頃–AD565年11月14日 · 命令テオドラAD500年頃–AD548年 · 支えたトティラ?–AD552年7月 · 東ゴートの王本文
476年に西ローマの皇帝が消えてから、半世紀がたっていた。北アフリカにはヴァンダル王国があり、イタリアには東ゴート王国があった。東のローマ帝国、いまビザンツと呼ぶ国の皇帝たちは、名目のうえでは西も自分の帝国だと考えていたが、取り返す力は無かった。
527年に即位したユスティニアヌス1世は、その名目を実際にしようとした。まず東の大国ササン朝と532年に「永久平和」を結び、東方の戦線を静めた。同じ年、都でニカの乱が起き、皇帝は逃げ出しかけたが、皇后テオドラが踏みとどまるよう説いたと、同時代の歴史家プロコピオスは書いている。反乱を鎮めて足場を固めた翌年、西へ兵を出した。

533年、将軍ベリサリウスが率いる軍が北アフリカに上陸した。兵はプロコピオスによれば歩兵1万、騎兵5000ほどで、大軍とは言えない。ヴァンダル王国では王位をめぐる争いがあり、王の兄弟が率いる主力は島の反乱を鎮めに出ていた。9月、カルタゴの手前の戦いで勝ち、都に入った。12月にもう一度勝ち、翌534年の春、王ゲリメルが降伏した。439年にカルタゴを取ってから95年続いた王国が、半年ほどで消えた。ベリサリオスは都で凱旋の行列を許され、捕らえた王を連れて歩いた。
イタリアは、そうはいかなかった。535年にシチリアを取り、536年にナポリを落とし、年末にローマへ入った。ここまでは速い。だが東ゴート軍は大軍でローマを囲み返し、攻囲は1年あまり続いた。このとき水道が切られ、千年近く都に水を運んできた施設が止まった。ローマの守りの詳しい経過はベリサリウスのローマ奪還に書いた。540年、ベリサリオスはラヴェンナに入り、東ゴート王を捕らえた。戦争は終わったように見えた。

終わっていなかった。ベリサリオスが東方へ呼び戻されると、東ゴートは新しい王トティラのもとで立ち直る。トティラは税を軽くし、奴隷や小作人を味方に引き入れ、数年でイタリアの大部分を取り返した。546年にはローマも落ちる(トティラのローマ占領)。帝国の側は、兵も金も足りなかった。
足りなかった理由は二つある。540年、ササン朝が「永久平和」を破ってシリアに攻め込み、大都市アンティオキアを落とした。東方を空けて西へ兵を出していたつけが回ってきた。そして541年、エジプトから疫病が広がった。ユスティニアヌスの疫病で、翌年には都でも多数が死んだ。税を払う人と兵になる人が、一度に減った。

決着をつけたのは、老いた宦官の将軍ナルセスだった。552年、皇帝はようやく大軍を整えて送り、中部イタリアの戦いでトティラを破った。トティラはこの戦いで死ぬ。最後の王もナポリ近くで敗れ、554年、皇帝はイタリアの統治の決まりを布告した。この年をもって再征服の終わりとすることが多い。同じころ、スペインの南岸にも足場を得ている。地中海は、再びほぼ一つの帝国に囲まれた。
だが、手に入れたイタリアは20年の戦争で荒れ果てていた。ローマは何度も攻められ、取られては取り返され、人口は激減した。元老院は記録から姿を消していく。古代都市としてのローマは、ゴート戦争で終わったという見方がある。同じ時期、帝国はハギア・ソフィア大聖堂を建て、ローマ法大全をまとめた。再征服も法典も大聖堂も、ローマ帝国をかつての姿に戻すという同じ考えから出ている。
その費用は、重い税となって帝国の住民にかかった。565年に皇帝が死ぬと、後継者はすぐに金庫が空だと知る。3年後の568年、ランゴバルドがイタリアに入り(ランゴバルドのイタリア侵入)、北と中部の大半を奪った。帝国に残ったのはラヴェンナとローマ、南部などの点と線で、ラヴェンナも751年に失われる。北アフリカは7世紀の末、アラブの軍に取られた。

ユスティニアヌスの再征服は、過去を取り戻そうとして、未来のための力を使い果たした例として語られることが多い。一方で、疫病とペルシアの侵攻という予期できない打撃が重なった不運を強調する見方もある。いずれにせよ、地中海を一つの帝国が囲んだのは、これが最後になった。