カール大帝の戴冠

概要
教皇が西の皇帝として冠を授けた。西ヨーロッパが独自の帝国を名乗りはじめる。
場所
50.78°N 6.08°E · ドイツ
関わった人(1)
カール大帝AD748年頃–AD814年 · 当人本文
800年12月25日、ローマのサン・ピエトロ大聖堂。クリスマスのミサの最中、祭壇の前で祈りを終えて立ち上がったフランク王カール大帝の頭に、教皇レオ3世が冠を載せた。集まったローマの人々が声をそろえて叫んだと、フランク王国の年代記は伝える。神によって冠を授けられた、偉大にして平和をもたらすローマ人の皇帝、尊厳なるカールに、命と勝利を、と。西ヨーロッパに、300年あまりぶりに皇帝が立った瞬間だった。
ここに至るまでに、フランクの王家とローマの教皇は半世紀かけて結びついていた。カールの父ピピン3世(小ピピン)は、751年に教皇の同意を得て、名ばかりになっていたメロヴィング家の王を退け、自ら王になった。その見返りに、北イタリアのランゴバルド王国に脅かされていた教皇を助け、奪った土地を教皇に与えた。ピピンの寄進である。教皇はもはや、遠く離れたコンスタンティノープルの皇帝を頼りにしていなかった。東の帝国は聖像破壊論争をめぐって教皇と対立し、イタリアを守る力も失っていた。

カールは768年に王位を継ぎ、30年あまり戦い続けた。774年にはランゴバルド王国を滅ぼしてその王を兼ね(ランゴバルド王国の滅亡)、北の異教徒ザクセン人とは30年にわたって戦い、力ずくでキリスト教に改宗させた。東ではアヴァール人を討ち、南ではピレネーを越えてイスラム勢力と戦った。800年の時点で、彼の支配は今のフランス、ドイツ、ベネルクス、イタリアの北半分、スイス、オーストリアにまで及んでいた。かつての西ローマ帝国の中心部の大きな部分が、一人の王の手に集まっていた。
直接のきっかけは、教皇の身に起きた事件だった。799年4月、レオ3世はローマ市内の行列の最中に、前の教皇の親族らに襲われた。目をえぐられ、舌を切られかけたとも伝えられる。レオは逃れてアルプスを越え、ザクセンのパーダーボルンにいたカールのもとへ身を寄せた。反対派は教皇に不品行や偽証の罪があると訴えていた。カールは教皇を護衛付きでローマへ帰らせ、翌800年の11月、自らもローマに入った。12月23日、レオは福音書に手を置いて、身の潔白を誓った。その2日後が、クリスマスのミサだった。

カールの伝記を書いた側近のアインハルトは、カール自身はこの戴冠を望んでおらず、教皇の意図を知っていたら、その日がどれほど大事な祝日でも教会には入らなかっただろう、と言っていたと書いている。これを額面どおりに受け取る研究者は少ない。すべてが前もって打ち合わされていた演出で、謙遜を示すのは当時の型どおりのふるまいだった、とする見方が強い。一方で、冠を授ける役を教皇が演じ、まるで皇帝の位が教皇から与えられるかのような形になったことを、カールが不快に思ったのではないか、という解釈もある。13年後、カールは息子ルートヴィヒを共同の皇帝にするとき、教皇を呼ばず、アーヘンの宮廷で自ら冠を授けさせた。
問題は、東に皇帝がいたことだった。ローマ帝国は東西に分かれても一つの帝国であり、476年に西の皇帝が絶えた後は、コンスタンティノープルの皇帝が唯一のローマ皇帝だった。そこへ、西で別の皇帝が立ったのである。

しかもそのとき、コンスタンティノープルの帝位にいたのは女性のエイレーネーだった。797年、彼女は自分の息子である皇帝コンスタンティノス6世の目をつぶさせて退け、ローマ帝国の歴史で初めて、女性として単独で帝国を治めていた。西の側は、帝位は空いていると解釈した。女性は皇帝たりえない、という理屈である。東ローマの年代記作者テオファネスは、カールがエイレーネーに結婚を申し込み、東西の帝国を一つにしようとしたと書いているが、どこまで本当かは分からない。802年にエイレーネーは宮廷のクーデターで退けられ、話は立ち消えになった。
東の宮廷は、西の皇帝を認めなかった。カールを「フランク人の王」としか呼ばなかった。アドリア海の奥のヴェネツィアとダルマチアをめぐって両者は争い、交渉は長く続いた。812年、東の皇帝ミカエル1世の使節がアーヘンを訪れ、カールを「皇帝(バシレウス)」と呼んで歓呼した。ヴェネツィアを東に残すことと引き換えに、皇帝の称号を使うことだけが黙認されたのである。ただし「ローマ人の皇帝」ではなかった。東の皇帝だけがローマ人の皇帝であるという建前は崩されなかった。カール自身も、公文書では「ローマ帝国を治める皇帝」という慎重な言い回しを使っている。

カールの宮廷のあったアーヘンには、各地から学者が招かれた(アーヘンの宮廷学校)。古い写本が書き写され、読みやすい小文字の書体が整えられた。私たちが今読むローマの古典の多くは、この時代の写本を通して残ったものである。
カールは814年にアーヘンで死んだ。帝国は孫たちの代に争いのすえ、843年のヴェルダン条約で三つに分けられ、皇帝の位は名ばかりになっていく。それが再び重みを取り戻すのは、962年、東フランクの王オットー1世がローマで冠を受けたとき(オットー1世の戴冠)で、これが後に神聖ローマ帝国と呼ばれる国の始まりになる。

ローマ帝国の後継者が二人になった。東と西のどちらが本当のローマなのかという主張の衝突は、教会の東西分裂とも重なりながら、その後数百年続く。そして西の内側では、皇帝の冠は教皇から授かるものなのか、それとも皇帝は神から直接その位を受けるのか、という問いが残された。800年のクリスマスに教皇が冠を載せた、その一つの所作が、皇帝と教皇のどちらが上かをめぐる中世の長い争いの出発点になった。