人物

フォティオス

Photios I
AD810年頃 – AD893年頃(享年83・推定)
東ローマ帝国重要度 3

概要

俗人の学者が6日で総主教になり、ローマ教皇と互いに破門し合った。「フィリオクェ」を西方の誤りとして責め、スラヴへの伝道を送った。『ビブリオテカ』は失われた本280冊の要約で、古代の知識の多くがそこにしかない。

所属

東ローマ帝国

関わったできごと(1)

フォティオスの分裂AD867年 · 総主教

本文

810年頃から820年頃のあいだに、コンスタンティノープルの名家に生まれた。一族には8世紀末の総主教タラシオスがいる。両親は、聖像崇敬を禁じた皇帝たちの時代に、聖像を守る側に立って財産を奪われ、追放先で死んだ。のちに教会は二人を聖人に数えている。843年に聖像崇敬が正式に復活したとき、フォティオスはまだ若く、聖像を守った家の子として、新しい時代の教会と宮廷に迎えられた。

コンスタンディヌーポリ総主教フォティオス1世のフレスコ画
コンスタンディヌーポリ総主教フォティオス1世のフレスコ画Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

彼は第一に学者だった。文法、修辞学、哲学、神学、医学まで、学べるものは何でも学び、自宅に若者を集めて教えた。後にスラヴ人への伝道で名を残すコンスタンティノス(修道名キュリロス)も、彼の教えを受けたと伝えられる(キュリロス)。宮廷では書記官長として皇帝の文書を預かり、アッバース朝への使節にも加わった。

その使節に出る前、弟のタラシオスの求めに応じて、それまでに読んだ本の内容をまとめて送った。これが『ビブリオテカ』(文庫)で、279の項目からなる。歴史、神学、小説、弁論、医学と、扱う本の幅は広い。一冊ごとに著者と内容を要約し、文体と中身を短く批評する。この文体は明快で読みやすいが、話の中身は信用できない、といった調子である。

フォティオスの査問、マドリード・スキュリツェス(12世紀の写本)の細密画
フォティオスの査問、マドリード・スキュリツェス(12世紀の写本)の細密画Wikimedia Commons Unknown, 13th-century author · Public domain

この本の値打ちは、取り上げた本の多くがその後失われたことにある。クテシアスの『ペルシア史』、アッリアノスがアレクサンドロスの死後を書いた歴史、イアンブリコスの小説『バビュロニアカ』など、いまでは原本がなく、フォティオスの要約によってしか中身を知りえない書物がいくつもある。9世紀のコンスタンティノープルには、古代の本がまだこれだけ残っていた。その最後の姿を一人の読書家が書き留めたのである。ほかに古典の語を集めた『辞書』や、神学と文法の問いに答えた『アンフィロキア』も残っている。

858年、皇帝ミカエル3世の叔父で実権を握るバルダスが、総主教イグナティオスを退位に追い込んだ。後任に選ばれたのが、俗人の学者だったフォティオスである。彼は剃髪を受けてから、読師、副助祭、助祭、司祭と、わずか6日で位を駆け上がり、クリスマスの日に総主教に就いた。イグナティオスの支持者は反発し、ローマ教皇ニコラウス1世に訴えた。教皇は、俗人を急いで叙階したことと前任者の退け方を問題にし、863年、フォティオスの罷免を宣言した。

860年、北からルーシの船団が初めてコンスタンティノープルを襲った。フォティオスはその恐怖を説教に残している。ルーシとの関わりはここから始まり、やがて彼らへの布教につながる(ルーシの成立)。863年には、モラヴィアの君主の求めに応じて、コンスタンティノスとメトディオスの兄弟がスラヴ語で布教する使命を与えられて送り出された(メトディオス)。この兄弟が作ったスラヴの文字は、のちのキリル文字のもとになる。

対立を決定的にしたのはブルガリアだった。864年、ブルガリアの君主ボリス1世は東ローマから洗礼を受けたが(ブルガリアの改宗)、自分の教会の独立をめぐって不満を抱き、866年にローマへ乗り換えた。ローマから来たラテンの宣教師たちは、信条に「子からも」(フィリオクェ)の語を加えて唱えていた。聖霊は父から出る、とする信条に、西方は「父と子から出る」と付け加えていたのである。867年、フォティオスは東方の総主教たちに回状を送ってこれを誤りと断じ、公会議を開いて教皇ニコラウスを破門した(フォティオスの分裂)。

ブルガリアの改宗に関わる図版:Baptism of the Preslav Court
ブルガリアの改宗Wikimedia Commons Nikolai Pavlovich (1835-1894) · Public domain

ところが同じ年、ミカエル3世が側近のバシレイオスに殺され、バシレイオス1世が帝位に就くと、フォティオスは退けられ、イグナティオスが復帰した。869年から翌年の公会議で彼は断罪され、修道院に閉じ込められた。この時期の手紙で、彼は本を取り上げられたことを、病人から薬を奪うようなものだと嘆いている。

やがてバシレイオス1世は彼を許し、息子たちの教育を任せた。877年にイグナティオスが死ぬと、フォティオスは再び総主教に就き、879年から880年の公会議で教皇ヨハネス8世の使節も彼を認めた。だが886年、バシレイオスの死後に即位したのは、かつての教え子レオン6世だった。レオンは彼を再び退け、修道院に送った。晩年に書いた『聖霊の秘儀について』は、フィリオクェに対する最初の体系的な反論として、その後の東方教会の論拠になった。893年頃に死んだとみられる。

正教会は彼を聖人とし、大フォティオスと呼ぶ。カトリック教会では長く東西分裂の元凶とされたが、20世紀に入って研究が進み、ローマとの和解に努めた面も見直されるようになった。1054年の東西教会の分裂はまだ先のことだが、二つの教会が互いを裁き合う構図は、彼の時代に一度はっきり姿を現していた。

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