フォティオスの分裂

概要
総主教フォティオスが教皇ニコラウス1世を破門し、教皇はその前にフォティオスを破門していた。ブルガリアをどちらの教会に置くか、信条に「子からも」を入れるか。1054年の分裂の、前の分裂。
場所
41.01°N 28.98°E · トルコ・イスタンブール
関わった人(1)
フォティオスAD810年頃–AD893年頃 · 総主教本文
9世紀のビザンツ帝国では、教会と宮廷の争いが絡み合っていた。858年、コンスタンティノープルの総主教イグナティオスは、皇帝ミカエル3世の叔父で実権を握るバルダスと対立し、退位を迫られた。後任に選ばれたのが、宮廷の高官で、当代随一の学者として知られていたフォティオスである。彼は聖職者ではなく俗人だったが、わずか数日のうちに下級の職から司祭、主教へと順に叙階され、総主教の座に就いた。
イグナティオスを支持する人々は、ローマに訴えた。教皇ニコラウス1世は、教皇こそが全教会の争いを裁く権威を持つと考える人で、使節を送って調べさせた。ところが861年、使節はコンスタンティノープルの会議でフォティオスの就任を認めてしまう。教皇は使節が権限を越えたとしてこれを否認し、863年、ローマの教会会議でフォティオスを罷免し、イグナティオスを正しい総主教とした。コンスタンティノープルの側はこれを無視した。
争いを決定的にしたのは、ブルガリアだった。864年ごろ、ブルガリアの君主ボリス1世は、ビザンツの圧力のもとでキリスト教の洗礼を受けた(ブルガリアの改宗)。しかしボリスは、自分の国の教会がコンスタンティノープルの言いなりになることを嫌い、独自の総主教を求めた。866年、彼はローマへ使者を送って、信仰と暮らしについて多くの問いを投げかけた。ニコラウスは106項目にわたる丁寧な答えを書き送り、ラテン人の司教や司祭をブルガリアへ送り込んだ。ビザンツの聖職者は追い出された。

帝国の北の隣国を、ローマの教会に奪われる。フォティオスは激しく反発した。867年、彼は東方の総主教たちに回状を送り、ブルガリアでラテン人が広めている慣習を誤りとして並べ立てた。信条に「子からも(フィリオクェ)」の語を加え、聖霊が父だけでなく子からも出ると唱えること。土曜日に断食すること。司祭に独身を強いること。洗礼のあとの塗油を主教だけに限ること。なかでもフィリオクェは、信条を勝手に書き換えた異端だと非難した。同じ年、コンスタンティノープルの教会会議は、教皇ニコラウスを破門し、廃位を宣言した。東方の教会が、ローマの教皇を廃位したのである。
しかし、その直後に情勢は一変する。867年9月、ミカエル3世が側近のバシレイオスに殺され、バシレイオス1世が皇帝になった。バシレイオスはローマとの和解を望み、フォティオスを退けてイグナティオスを総主教に戻した。教皇ニコラウスも同じ年の11月に死んでいた。869年から870年にかけての会議で、フォティオスは断罪された。ローマの教会はこの会議を第八回の公会議と数えている。ところが会議の終わりに、ブルガリアの教会はコンスタンティノープルの管轄に置くと決められ、ラテン人の聖職者は帰された。ローマは、和解と引き換えに肝心のブルガリアを失った。

877年にイグナティオスが死ぬと、フォティオスはまた総主教に返り咲いた。879年から880年の会議で彼の名誉は回復され、教皇ヨハネス8世の使節もこれを認めた。正教会は、こちらの会議を第八回と数えることがある。こうして最初の分裂はいったん収まった。886年、フォティオスはかつての教え子でもあった皇帝レオン6世によって再び退けられ、修道院へ送られて、890年代のはじめに死んだ。
フォティオスは、教会の政治家である前に、大学者だった。彼の『ビブリオテカ』は、自分が読んだ279の書物の内容を要約し、論評したもので、古代ギリシアの歴史書や小説、医学書など、本そのものが失われ、この要約でしか内容が分からない作品を多く含んでいる。序文には、外国への使節として旅立つ前に、兄弟のために書いたとある。スラヴの人々に布教したキュリロスとメトディオスの兄弟も、彼の周りにいた学者たちと近い間柄だった。
フォティオスの時代の分裂は、のちの東西の決裂を先取りしていた。フィリオクェの是非、そして教皇が全教会の上に立つかどうか。1054年にローマとコンスタンティノープルが互いを破門し合ったとき(東西教会の分裂)、争点は867年とほとんど同じだった。ブルガリアをはじめとするスラヴの国々の多くが東方の教会に属したことも、9世紀のこの争いに遠く根を持っている。