人物

ニケフォロス2世フォカス

Nikephoros II Phokas
AD912年 – AD969年12月11日(享年57・推定)
ビザンツ帝国重要度 4

概要

カッパドキアの軍人の家。クレタ、アレッポ、キリキア、アンティオキア。「サラセン人の青白い死」。皇帝の寡婦テオファノと結婚して皇帝に。修道士のように暮らし、兵に金を使い、民に嫌われた。妻の愛人ヨハネス・ツィミスケスに寝室で殺された。「ニケフォロス、起きよ」。

関わったできごと(1)

クレタの奪回AD961年3月 · 取り戻した

本文

ニケフォロス2世フォカスは、10世紀の半ばにイスラームの勢力から東地中海の島々と都市を次々に取り戻し、自ら皇帝の座に就いたビザンツの軍人である。912年頃、小アジアの奥のカッパドキアに根を張る軍人の名門フォカス家に生まれた。祖父も父バルダスも帝国の東の軍を率いた将軍で、一族はアラブとの国境の戦いの中で力を蓄えてきた。

ニケフォロス2世フォカスの肖像
ニケフォロス2世フォカスの肖像Wikimedia Commons Unknown Byzantine artist · Public domain

当時のビザンツの東の国境は、タウロス山脈をはさんでイスラームの国々と向き合っていた。とくにシリア北部のアレッポを拠点とするハムダーン朝の君主サイフ・アッダウラは、毎年のように小アジアに攻め込んでいた。954年頃、ニケフォロスは父の後を継いで東方の全軍の司令官になる。彼は山岳の国境での小競り合いの戦い方に通じ、のちに彼の指導のもとで、敵の侵入を見張り、待ち伏せし、帰り道を断つ戦法をまとめた兵法書が書かれた。

彼の名を一気に高めたのは、クレタ島の奪回である(クレタの奪回)。クレタは9世紀の前半からアラブ人の首長の国となり、エーゲ海を荒らす海賊の根城だった。帝国はそれまで何度も奪回の兵を送っては失敗していた。960年、ニケフォロスは大艦隊を率いて上陸し、冬を越す長い包囲の末、961年3月に主邑カンダクスを落とした。翌962年には東へ転じ、サイフ・アッダウラの都アレッポに攻め入って宮殿を奪い、町を略奪した。アラブの側から恐れられた彼を、ビザンツの人々は「サラセン人の青白い死」と呼んだ。

クレタの奪回に関わる図版:Byzantines under Nikephoros Phokas besiege Chandax
クレタの奪回Wikimedia Commons Unknown, 13th-century author · Public domain

963年3月、皇帝ロマノス2世が20代の若さで急死した。残されたのは、皇后テオファノと、5歳のバシレイオス(のちのバシレイオス2世)と幼い弟コンスタンティノスだった。都で実権を握る宦官ヨセフ・ブリンガスは、人気の高い将軍を危険とみてニケフォロスを除こうとした。これを知ったニケフォロスは、カッパドキアのカイサリアで兵たちに皇帝として推し立てられ、都に兵を進めた。都の民衆もブリンガスに背き、8月16日、ニケフォロスはハギア・ソフィアで戴冠した。二人の幼い皇子は共同皇帝の地位のまま残された。

ほどなくニケフォロスは、皇太后テオファノと結婚した。若く美しく、低い身分の生まれと噂された皇后と、50歳を過ぎた無骨な将軍との結婚だった。総主教ポリュエウクトスは、再婚の者には一定の期間聖体を授けないという教会の決まりを盾にこれに難色を示し、さらにニケフォロスがテオファノの子の代父であったという話を持ち出して結婚の正当性を問うた。結婚は押し通されたが、皇帝と教会との間には溝が残った。

963年夏、黄金門を通りコンスタンティノープルへ入城する皇帝ニケフォロス
963年夏、黄金門を通りコンスタンティノープルへ入城する皇帝ニケフォロスWikimedia Commons Public domain

ニケフォロスは、皇帝になってからも修道士のように暮らした。肉を断ち、床に敷いた毛皮の上で眠り、修道士の粗衣を身につけていたと伝えられる。妻を亡くしたあとは修道院に入るつもりだったともいい、アトス山に修道院を開いた修道士アタナシオスの友人であり支援者だった。アトスの大ラヴラ修道院は、彼の援助で建てられている。

皇帝となっても、戦いはやめなかった。964年から965年にかけて、彼は小アジアの南東、キリキアの諸都市を攻め、モプスエスティアと、使徒パウロの故郷タルソスを落とした。同じころ、キプロス島も帝国の手に戻った。西では、ブルガリアが貢納を求めてきたのに怒り、北のルーシの大公スヴャトスラフに金を贈ってブルガリアを攻めさせた。ただしこの策は、のちにルーシをバルカンに引き入れる結果を招いた。

ニケフォロス2世(右)と聖母マリアを描いたヒスタメノン金貨
ニケフォロス2世(右)と聖母マリアを描いたヒスタメノン金貨Wikimedia Commons Dumbarton Oaks · Public domain

戦いの費用は重い税となって民にのしかかった。ニケフォロスは軍に惜しみなく金を使う一方、貨幣の価値を操ったとされ、飢饉の年にも穀物の値上がりを抑えなかったと非難された。教会や修道院が新たに土地を得ることを法で制限したことは、聖職者たちの反感を買った。戦死した兵士を殉教者として祀るよう求めたときも、教会は拒んでいる。967年頃には、行列の途中で民衆に石を投げつけられた。皇帝は宮殿の周りに高い壁を築き、そこに閉じこもるようになった。

968年、ドイツのオットー1世の使節として、クレモナの司教リウトプランドが都を訪れた。彼が残した報告は皇帝への悪口に満ちている。背が低く、頭が大きく、肌は黒く、猪のような目をした男だと書き、オットーをローマ皇帝と呼ぶことは許さないと言い放つ皇帝の姿を伝えた。敵意に満ちた見方だが、ニケフォロスの容姿と頑固さについての数少ない同時代の描写である。

タルソスがニケフォロス・フォカス(着席)に降伏する場面
タルソスがニケフォロス・フォカス(着席)に降伏する場面Wikimedia Commons from the Middle Ages, unknown · Public domain

969年10月、ニケフォロスの部将たちは、7世紀にアラブに奪われてから三百年あまり帝国の外にあった大都市アンティオキアを取り戻した。だがその喜びもつかの間だった。ニケフォロスは、母方の甥で有能な将軍のヨハネス・ツィミスケスを以前に軍から退けていた。テオファノはこのツィミスケスと通じていた。12月10日の夜、ツィミスケスと数人の仲間は小舟で宮殿の岸に着き、女たちの手引きで籠に乗って壁を引き上げられた。寝室に踏み込むと、皇帝は寝台ではなく、床に敷いた熊の毛皮の上で眠っていた。刺客たちは彼を斬りつけ、ツィミスケスの前に引き据えて、とどめを刺した。57歳前後だった。

ツィミスケスはヨハネス1世として帝位に就いた。だが総主教は、皇帝殺しの罪を償う条件として、テオファノを宮殿から追い、実行の仲間を罰するよう求めた。ツィミスケスはこれを受け入れ、かつての愛人を遠い島へ送った。

投石機でハムダーン朝の要塞を攻めるニケフォロス軍
投石機でハムダーン朝の要塞を攻めるニケフォロス軍Wikimedia Commons Άγνωστος/Unknown · Public domain

ニケフォロスの墓には、のちに、剣と人のすべてに勝ったが、一人の女にだけは敗れた、という意味の詩が刻まれたと伝えられる。兵からは慕われ、都の民からは嫌われた皇帝だった。だがクレタ、キプロス、キリキア、アンティオキアの奪回は、その後半世紀にわたる帝国の拡大の始まりになった。その仕事はツィミスケスに、そしてやがて成長したバシレイオス2世へと受け継がれ、マケドニア朝の始まりの帝国は最も広い版図を築いていく。

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