人物

ベリサリウス

Belisarius
AD500年頃 – AD565年(享年65・推定)
東ローマ帝国重要度 4

概要

ペルシアを破り、ニカの乱を鎮め、ヴァンダルを一年で滅ぼし、東ゴートからローマとラヴェンナを取った。皇帝に疑われて呼び戻され、フン人がコンスタンティノープルに迫ると老兵300で追い返した。盲目の乞食になったという伝説は、事実ではない。

所属

東ローマ帝国

関わったできごと(3)

ニカの乱AD532年1月13日 · 鎮圧ベリサリウスのローマ奪還AD536年12月9日 · 将軍トティラのローマ占領AD546年12月17日 · 奪い返した

本文

ベリサリウスは500年ごろ、バルカン半島の内陸、トラキアとイリュリアの境にあたるゲルマニアという町で生まれた(いまのブルガリア西部とされる)。生まれについて分かっていることは少ない。彼の生涯の大半は、秘書として遠征に従った歴史家プロコピオスの『戦史』を通して知られている。若くして、のちの皇帝ユスティニアヌス1世の私兵の護衛隊に入り、その目にとまった。

ベリサリウスのモザイク画
ベリサリウスのモザイク画Wikimedia Commons Meister von San Vitale in Ravenna · Public domain

527年にユスティニアヌスが即位すると、20代のベリサリウスは東方の国境に送られた。530年、メソポタミアの要塞ダラの前で、倍ほどのペルシア軍を迎え撃った。城壁の前に塹壕を掘り、その形に合わせて歩兵と騎兵を配し、伏兵を丘の陰に隠した。ペルシア軍の突撃は塹壕で止まり、側面から騎兵に崩された。東ローマがペルシアに野戦で勝つのは久しぶりのことだった。だが翌年、ユーフラテス河畔のカリニクムでは、はやる兵に押されて戦いを挑み、敗れた。

532年1月、都コンスタンティノープルで競馬の応援団の青組と緑組が手を組んで暴動を起こした。「勝て」を意味する叫び声からニカの乱と呼ばれる。町は燃え、群衆は別の皇帝を担ぎ出した。ユスティニアヌスは船で逃げようとしたが、皇后テオドラが、帝衣は最上の死に装束だと言って押しとどめたとプロコピオスは書く。ベリサリウスは将軍ムンドゥスとともに、群衆が集まった競馬場に兵を突入させた。殺された者は3万人に及んだとされる。帝位は守られ、焼けた大聖堂の跡には、のちに新しいハギア・ソフィアが建てられる(ハギア・ソフィアの完成)。

ジャック=ルイ・ダヴィッドによる『施しを乞うベリサリウス』。出所不明の民間伝説にしたがって、目をくり抜かれた物乞いとして描かれている。
ジャック=ルイ・ダヴィッドによる『施しを乞うベリサリウス』。出所不明の民間伝説にしたがって、目をくり抜かれた物乞いとして描かれている。Wikimedia Commons Jacques-Louis David · Public domain

翌533年、ユスティニアヌスは北アフリカのヴァンダル王国を討つと決めた。約100年前にローマからカルタゴを奪ったゲルマン人の国である(ガイセリックのカルタゴ占領)。廷臣たちは60年ほど前の大遠征が惨敗したことを覚えていて反対したが、ヴァンダルの王位争いが口実と機会を与えた。ベリサリウスは歩兵と騎兵あわせて1万5000ほどで船出し、カルタゴの南の海岸に上陸した。9月、カルタゴから10マイル目の地点、アド・デキムムで、王ゲリメルの軍を破り、カルタゴに入った。12月にはトリカマルムで再び破った。山にこもったゲリメルは、冬を越して翌年春に降伏した。王国は1年足らずで消えた(ユスティニアヌスの再征服)。

534年、ベリサリウスはコンスタンティノープルで凱旋式を許された。帝政が始まってから、皇帝以外の者に凱旋式が行われるのは何百年もなかったことだった。捕虜となったゲリメルは、皇帝の前に引き出されると、旧約の言葉で、空の空、すべては空、と繰り返したとプロコピオスは伝える。

ローマで東ゴート軍を攻撃するベリサリウス(536年)、ヘルマン・フォーゲル画
ローマで東ゴート軍を攻撃するベリサリウス(536年)、ヘルマン・フォーゲル画Wikimedia Commons Hermann Vogel (German illustrator) (16 October 1854 – 22 February 1921) · Public domain

535年、次の標的はイタリアの東ゴート王国だった(テオドリックのイタリア王国)。名君テオドリックの死後、王家は乱れていた。ベリサリウスはわずかな兵でシチリアを取り、ナポリを水道の中から兵を忍び込ませて落とし、536年12月、ローマに入った(ベリサリウスのローマ奪還)。翌年からゴート王ウィティギスの大軍に1年あまり囲まれたが、城壁を守り抜き、包囲は解かれた。540年、ゴートの都ラヴェンナを囲むと、ゴート人たちは、ベリサリウスが西の皇帝になるなら降ると申し出た。彼は受けるふりをして城に入り、ラヴェンナをそのまま皇帝のものにした。

この一件は、皇帝の疑いを深めた。ベリサリウスは呼び戻され、ペルシア戦線へ回された。542年、都でユスティニアヌスの疫病が広がり、皇帝も倒れた。東方の陣では、都が勝手に次の皇帝を立てても認めない、と将軍たちが話し合ったとされる。回復した皇帝とテオドラはこれを反逆と受け取り、ベリサリウスから兵を取り上げ、蓄えた財産の多くを没収した。妻アントニナがテオドラの親しい友人だったことが、彼を救ったと言われる。

ユスティニアヌスの疫病に関わる図版:Plaguet03
ユスティニアヌスの疫病Wikimedia Commons Josse Lieferinxe · Public domain

544年、ベリサリウスは再びイタリアへ送られた。ゴートは新しい王トティラのもとで勢いを取り戻していたが、皇帝は兵も金もほとんど与えなかった。ベリサリウスは援軍を求める手紙を書き続け、ローマを奪われては取り返し、5年をむなしく費やして呼び戻された。イタリアを最終的に平定したのは、十分な兵を与えられた宦官の将軍ナルセスだった。

559年、コトリグルと呼ばれるフン系の騎馬の民が、凍ったドナウ川を渡り、首都の城壁の近くまで迫った。都には戦える軍がいなかった。皇帝は60歳近いベリサリウスを呼び出した。彼は自分の古参兵300ほどと、武器を持たせた市民や農民を率い、森に伏兵を置いて敵の先頭を待ち伏せし、追い返した。最後の戦いだった。

盲目の乞食となったベリサリウスを旧部下が見出す場面、ヴァンサン画(1776年)
盲目の乞食となったベリサリウスを旧部下が見出す場面、ヴァンサン画(1776年)Wikimedia Commons François-André Vincent · Public domain

562年、皇帝暗殺の陰謀に名前が出され、職を解かれて屋敷に閉じ込められた。翌年には潔白とされ、名誉を戻された。565年3月に死んだ。同じ年の11月、ユスティニアヌスも死んだ。

プロコピオスは公の『戦史』でベリサリウスを讃えたが、ひそかに書いたプロコピオス『秘史』では、妻の言いなりになる弱い男として描いている。後の時代、ベリサリウスは皇帝に目を潰され、都の門の前で乞食になって、ベリサリウスに一オボロスを恵みたまえと物乞いした、という話が生まれた。11世紀から12世紀の書物に現れる話で、同時代の記録には無い。18世紀にはフランスのマルモンテルが小説にし、ダヴィッドが絵に描いた。忠誠を尽くした英雄が恩知らずの君主に捨てられる物語として、ヨーロッパで広く好まれた。実際のベリサリウスは失明も乞食もしていないが、皇帝にとって有能すぎる将軍がどう扱われたかは、この伝説がよく言い当てている。

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