ハギア・ソフィアの完成
概要
当時の技術の限界で建てた大聖堂。900年後にモスクへ、いまは博物館と礼拝所を行き来している。
場所
41.01°N 28.98°E · トルコ・イスタンブール
関わった人(1)
ユスティニアヌス1世AD482年頃–AD565年11月14日 · 命令本文
「聖なる叡智」を意味するハギア・ソフィアの名を持つ教会は、6世紀より前にもコンスタンティノープルに二度建てられていた。4世紀にコンスタンティウス2世が建てた最初の教会は404年の騒乱で焼け、テオドシウス2世が建て直した二代目も、532年1月のニカの乱で焼け落ちた。競馬場の党派が皇帝に背いた大暴動で、都の中心部は灰になり、ユスティニアヌス1世は一時、都から逃げ出すことまで考えた。皇后テオドラに、帝衣は最高の死に装束だと励まされて踏みとどまり、軍に暴徒を鎮圧させたと、歴史家プロコピオスは伝えている。
反乱が鎮まってわずか40日ほどのち、ユスティニアヌスは焼け跡に新しい大聖堂を建て始めた。それまでの教会とは比べものにならない規模で、帝国の力と皇帝の信仰を示すものになるはずだった。設計を任されたのは、トラレスのアンテミオスとミレトスのイシドロス。二人は建築の職人ではなく、幾何学と力学に通じた学者だった。帝国中から資材が集められ、1万人ともいわれる働き手が動員された。537年12月27日、大聖堂は献堂された。着工から5年10か月である。

二人が挑んだのは、四角い平面の上に巨大な円いドームを載せることだった。四本の太い柱の上に四つのアーチを架け、そのアーチのあいだの隙間を、下がすぼまった球面の三角形で埋める。これで、四角の上端が円になり、そこにドームを載せられる。「ペンデンティヴ」と呼ばれるこの方法は以前からあったが、これほどの大きさで使われたのは初めてだった。ドームの直径はおよそ31メートル、床からの高さは50メートルを超えた。さらにドームの付け根に40の窓をぐるりと並べたことで、内部では光の帯の上にドームが浮かんでいるように見えた。プロコピオスは、ドームは石の上に載っているのではなく、天から金の鎖で吊り下げられているかのようだと書いている。献堂の日、皇帝が「ソロモンよ、我は汝に勝った」と叫んだという話は有名だが、これは後世に作られた伝説とみられている。
だが、この大胆な設計には無理もあった。地震の多い土地で、ドームの重みは外へ押し広げる力となって建物を傷めた。558年、相次ぐ地震で弱っていたドームが崩れ落ちた。イシドロスの甥にあたる同名の建築家が、ドームを6メートルほど高くし、より急な曲線で造り直した。外へ押す力を減らすためである。562年に完成したこの二代目のドームが、部分的な修復を重ねながら、いまに伝わっている。

それから900年あまり、ハギア・ソフィアは東方のキリスト教世界の中心であり続けた。皇帝の戴冠が行われ、総主教が典礼を執り行った。10世紀の終わりにこの大聖堂を訪れたキエフ・ルーシの使節は、天にいるのか地にいるのか分からなかった、と報告したと年代記は伝え、ルーシが東方のキリスト教を受け入れる一因になったとされる。1054年には、ローマ教皇の使節がこの大聖堂の祭壇に総主教を破門する文書を置き、東西の教会の分裂を象徴する出来事となった。1204年には、第四回十字軍がコンスタンティノープルを略奪し、大聖堂も荒らされている(第4回十字軍のコンスタンティノープル略奪)。
1453年5月29日、オスマン帝国のメフメト2世がコンスタンティノープルを攻め落とした(コンスタンティノープル陥落)。スルタンはその日のうちにハギア・ソフィアに入り、ここをモスクとすることを決めた。のちに周りにミナレット(尖塔)が建てられ、壁の聖人のモザイクは漆喰で覆われていった。16世紀の大建築家ミマール・スィナンは補強の壁を加え、この建物に学んで、イスタンブルにいくつもの大モスクを築いた。ハギア・ソフィアの丸いドームの姿は、オスマン建築の手本になったのである。

1934年、トルコ共和国の初代大統領ケマル・アタテュルクの政府は、ハギア・ソフィアを博物館にすることを決め、翌年に一般に公開した。漆喰の下からビザンツのモザイクが掘り出され、キリスト教とイスラームの両方の歴史を見せる場所になった。しかし2020年7月、トルコの裁判所が博物館とした決定を取り消し、ハギア・ソフィアは再びモスクとして礼拝に使われるようになった。いまも観光客は中に入れるが、礼拝の時間にはモザイクの一部が幕で覆われる。
1500年近く前に建てられた同じ建物が、大聖堂、モスク、博物館、そしてまたモスクと、その時々の支配者と社会の思いによって意味を変えてきた。建物は変わらず立ち続け、その意味をめぐる議論のほうが続いている。