絹の秘密
概要
絹の作り方は、中国が数千年、外に出さなかった。蚕の卵を国外へ持ち出せば死罪である。ローマとビザンツは、代金を金で払い続けた。プロコピオスによれば、552年、インドから来た修道士たちがユスティニアヌス帝に申し出て、中央アジアへ戻り、卵を持ち帰った。杖の中に隠したという話は、別の書き手が伝える。真偽は確かめられない。しかし6世紀半ば以降、ビザンツ帝国が自前で絹を生産し始めたことは確かである。皇帝の工房が独占し、紫の絹は帝室の色になった。
場所
41.01°N 28.98°E · トルコ・イスタンブール
関わった人(1)
ユスティニアヌス1世AD482年頃–AD565年11月14日 · 命じた本文
絹は、カイコガの幼虫が吐く糸から作られる。桑の葉で蚕を育て、繭を作らせ、繭を熱湯で煮て中の蛹を殺し、ほぐれた繭から一本の長い糸を繰り出す。一つの繭から取れる糸は、数百メートルから千メートルを超える。それを何本か撚り合わせて糸にし、織る。手間のかかる仕事だが、できあがる布は軽く、なめらかで、光沢があり、染めた色がよく映える。
この作り方を、中国は長いあいだ外へ出さなかった。絹の歴史は新石器時代にさかのぼり、河南省の遺跡ではおよそ八千五百年前の土から絹のタンパク質が見つかったという報告もある(その解釈には議論がある)。蚕の卵や桑の種を国外に持ち出すことは死罪とされた、と伝えられている。絹は、漢の時代に張騫の西域派遣で開かれた西への道をたどって、はるか地中海まで運ばれた。

ローマの人々は、この布に夢中になった(ローマの絹)。1世紀の博物学者プリニウスは、ローマからインドや中国、アラビアへ、控えめに見積もっても年に一億セステルティウスもの金が流れ出ている、と嘆いた。数字の正確さは疑わしいが、絹などの贅沢品のために貴金属が国の外へ流れていくことが、問題として意識されていたことは確かである。哲学者セネカは、体を隠さない透ける絹の衣を、風紀を乱すものとして非難している。
作り方の秘密は、少しずつ漏れていった。朝鮮半島や日本には、早い時期に中国からの移住者を通じて伝わった。タリム盆地のオアシスの王国ホータンには、こんな伝説がある。中国の王女がホータンの王のもとへ嫁ぐとき、蚕の卵と桑の種を髪飾りの中に隠して持ち出した。国境の役人も、王女の髪までは調べなかった、というのである。7世紀にインドへ向かった玄奘が、この話を書き留めている(玄奘の西域行)。ホータン近くの遺跡からは、この伝説を描いたとみられる板絵も見つかっている。6世紀までには、ペルシアのササン朝も絹を作るようになっていた。

6世紀のビザンツ帝国にとって、絹は頭の痛い問題だった。絹は宮廷の儀式にも教会の典礼にも欠かせない。ところが、中国から西へ向かう絹の交易路は、宿敵ササン朝ペルシアが押さえていた。ビザンツは何度もペルシアと戦争をしながら、その敵に金を払って絹を買っていたのである。戦争が起きるたびに供給は止まり、値は跳ね上がった。ユスティニアヌス1世は、ペルシアを通さずに絹を手に入れる道を探した。
同じ時代の歴史家プロコピオスは、『戦史』の中でこんな話を伝えている。そのころ、インドの方から来た何人かの修道士が皇帝のもとを訪れた。彼らは「セリンダ」という土地に長く暮らしていて、絹の作り方を知っていた。絹は虫が作るもので、虫を生きたまま運ぶことはできないが、卵なら運べる、と彼らは言った。皇帝が大きな褒美を約束すると、修道士たちはセリンダへ戻り、卵を持ち帰って、孵化させ、桑の葉で育てることに成功した。プロコピオスはこれを552年ごろの出来事として書いている。セリンダがどこを指すのかは分かっていない。中国ともインドとも、中央アジアのどこかとも言われる。卵を中空の杖に隠して運んだという細部は、少し後の別の書き手の記録に出てくるもので、プロコピオスにはない。修道士を「二人」とするのも、後の伝え方である。

この話の真偽は確かめられない。プロコピオスは同時代の、比較的信頼できる歴史家だが、これは伝聞である。それに、卵を一度持ち込めば絹が作れるわけではない。桑を育て、卵を適当な温度で孵し、繭を煮て糸を繰り、それを織る。そのすべての技を身につけなければならない。実際には、卵だけでなく、技を持った人々の移動があったと考えるほうが自然だろう。それでも、6世紀の半ばから、ビザンツ帝国が自分の領内で絹を作り始めたことは確かである。
ビザンツの絹は、帝室が握った。皇帝の工房が生産と販売を管理し、特定の等級の絹は、皇帝とその家族、皇帝から下賜された者しか身につけられなかった。とりわけ、貝から取る高価な紫の染料(ティルスの紫)で染めた絹は、帝室の色とされた。宮殿の紫の部屋で生まれた皇子は「紫の生まれ」と呼ばれ、正統な世継ぎのしるしとされた。皇帝は外国の君主や使節に絹を贈り、絹は外交の道具にもなった。

絹の技術は、その後も人とともに移っていった。1147年、シチリアのノルマン人の王ルッジェーロ2世は、ギリシアのテーバイやコリントスを襲って、絹織りの職人たちを捕らえ、首都パレルモへ連れ帰った。技術は、やがてイタリアのルッカやヴェネツィア、フィレンツェへ、さらにフランスのリヨンへと広がる。日本で明治に開かれた富岡製糸場も、フランスから技術者を招いて始まった。秘密は、杖の中の卵よりも、職人の手の中に宿っていた。だから技は、職人が動くたびに国境を越えていった。