レオン3世(イサウリア朝)
概要
シリアの農民の子。718年、コンスタンティノープルを囲んだアラブ艦隊をギリシア火で焼き、飢えと寒さで退けた。帝国を救った。726年、聖像。「私は皇帝で司祭」。ユダヤ人に強制改宗を命じた。『エクロガ』。息子コンスタンティノス5世が、もっと激しくした。
関わったできごと(2)
コンスタンティノープル包囲とギリシア火717年 · 退けた聖像破壊論争726年 · 始めた皇帝本文
レオン3世は、685年頃、シリア北部のゲルマニケイア(いまのトルコのカフラマンマラシュ)で生まれた。もとの名をコノンという。9世紀の年代記作者テオファネスが彼をイサウリア(小アジア南部の山地)の出と書いたため、彼の王朝はイサウリア朝と呼ばれるが、これは誤りとみられている。家は農民で、一家はのちにバルカン半島のトラキアに移されたという。
若いレオンは、皇帝ユスティニアヌス2世に仕え、コーカサスへの困難な外交の使いを果たして頭角を現した。やがて小アジア中部の大きな軍管区アナトリコンの長官になった。当時の帝国は、20年余りのあいだに皇帝が何人も廃されては替わる混乱の中にあった。717年3月、レオンは兵を率いて首都に入り、皇帝テオドシオス3世を退位させて帝位に就いた。
即位から半年もたたない717年の夏、ウマイヤ朝のカリフの弟マスラマが率いるアラブの大軍が、陸と海からコンスタンティノープルを囲んだ。年代記は兵の数を膨大に伝えるが、その数字は誇張とみられる。レオンは港の入り口に鎖を張り、液体の焼夷兵器「ギリシア火」でアラブの艦隊を焼いた。その冬は例年になく厳しく、雪が長く地を覆い、包囲する側のアラブ軍で飢えと病が広がった。ブルガリアの王テルヴェルもアラブの陣を攻めた。718年8月15日、マスラマは包囲を解いて退いた(コンスタンティノープル包囲とギリシア火)。帰りの海でも嵐に遭い、無事に戻った船はわずかだったと伝わる。

この勝利は、732年のトゥール・ポワティエ間の戦いと並べて、ヨーロッパをイスラーム勢力の進出から守った戦いとして語られることが多い。帝国の都が落ちていれば、バルカン半島から東ヨーロッパへの道が開いていたはずだからである。レオンはその後も小アジアでアラブ軍と戦い、740年にはアクロイノンで大勝した。
726年、エーゲ海のテラ島(いまのサントリーニ島)で大きな噴火が起きた。のちの年代記によれば、レオンはこれを、聖像(イコン)を拝む人々への神の怒りと受け取った。宮殿の青銅門に掲げられていたキリストの像を取り外させ、それに抗議した女たちが作業の兵を殺した、という話が伝わる。730年、聖像を退ける方針に反対した総主教ゲルマノスが辞任に追い込まれた。こうして聖像の是非をめぐる長い争いが始まった(聖像破壊論争)。
ただし、レオン自身がどこまで聖像を壊させたのかは、はっきりしない。記録の多くは、聖像を守る側が勝ったあとに書かれたもので、レオンを悪く描く。彼が聖像に反対した理由も、偶像を禁じるイスラームやユダヤ教の影響、相次ぐ敗北と災害を神の罰とみた信仰、修道院の力をそぐ狙いなど、さまざまに論じられているが、決め手はない。皇帝であり司祭でもあると彼が述べたという言葉は、教皇の書簡に引かれたものだが、その書簡が本物かどうかも疑われている。
ローマの教皇グレゴリウス2世と3世は聖像への攻撃に強く反対した。帝国は報復として、南イタリアとシチリア、バルカン西部の教会を教皇の管轄からコンスタンティノープル総主教の管轄に移したとされる(その時期には異説がある)。東西の教会の溝はこれで深まった。帝国の外、ウマイヤ朝の都ダマスカスでは、カリフの役人の家に生まれた修道士ダマスコのヨアンネスが、聖像を擁護する論を書いた。
内政では、法典『エクロガ』を出した。ユスティニアヌスの法を簡潔なギリシア語にまとめ直したもので、死刑の代わりに手や鼻を切る刑を多く定めた。当時はそれが刑を軽くする工夫とされた。722年頃には、帝国のユダヤ人に洗礼を強いる命令を出したと伝わる。
741年6月18日、レオンは死んだ。後を継いだ息子コンスタンティノス5世は、父よりはるかに激しく聖像を退け、754年の公会議で聖像の崇拝を異端とし、抵抗する修道士を迫害した。787年、女帝エイレーネの召集した公会議で聖像は復活し、9世紀にいったん再び禁じられたのち、843年に最終的に認められた。レオンは帝国の都を救い、同時に帝国と教会を割る争いの口火を切った。