できごと

『アレクシアス』

Alexiad
AD1148年頃
重要度 3
『アレクシアス』に関わる図版:Anna comnena, alexiade, forse da costantinopoli, XII secolo (pluteo 70.2)
Anna comnena, alexiade, forse da costantinopoli, XII secolo (pluteo 70.2) Wikimedia Commons Sailko · CC BY 3.0

概要

皇女が父の治世と第1回十字軍を書いた。西欧の騎士を東側から観察した、女性の手による同時代史。

場所

コンスタンティノープル
41.01°N 28.98°E · トルコ・イスタンブール

関わった人(1)

アンナ・コムネナAD1083年12月1日–AD1153年頃 · 著者

本文

11世紀の後半、東ローマ帝国(東ローマ帝国)は滅亡の淵にあった。1071年、東のマンジケルトの戦いでセルジューク朝に大敗し、小アジアの大半をトルコ人に奪われた。西からは南イタリアを手に入れたノルマン人が海を渡って攻め込み、北からは遊牧民のペチェネグが押し寄せた。都では皇帝が次々に入れ替わった。1081年、この混乱の中で帝位に就いたのが、有力な軍人の家コムネノス家のアレクシオス1世コムネノスである。

アレクシオスは37年にわたって帝位にあり、ノルマン人を退け、ペチェネグを破り、帝国を立て直した。その治世を、娘が書いた。それが『アレクシアス』で、全15巻に及ぶ。題は、ホメロスの『イリアス』が「イリオス(トロイア)の歌」であるのにならい、「アレクシオスの物語」を意味する。

アンナ・コムネナの肖像
アンナ・コムネナWikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

著者のアンナ・コムネナは、1083年、アレクシオスの長女として、宮殿の中の紫の間と呼ばれる産室で生まれた。皇帝の在位中に生まれた子の誇りを込めて、自らを「紫の生まれ」と呼んでいる。幼くして、帝位を継ぐはずの若い貴公子と婚約し、自分もいずれ皇后になると思って育った。だが婚約者は早く死に、1087年には弟のヨハネスが生まれる。帝位は弟のものになった。

アンナは当時の女性としては異例の教育を受けた。ギリシアの古典文学、修辞学、哲学、数学、天文学、医学まで学び、アリストテレスやプラトンを読みこなした。のちに夫となったニケフォロス・ブリュエンニオスも学識のある軍人で、二人は学問を通じて結ばれていた。

1118年に父が死ぬと、弟がヨハネス2世として即位した。アンナは母とともに、弟を退けて夫を帝位に就けようとする企てに加わったとされる。企ては失敗し、アンナは財産を取り上げられたのち、母が建てた都の修道院のそばで、宮廷から遠ざけられて暮らすことになった。この事件の詳しい経緯は、アンナの側の記録には書かれていない。

夫のブリュエンニオスは、皇后の求めでアレクシオスの治世の歴史を書き始めていたが、1137年ごろ、仕上げないまま世を去った。アンナはその仕事を引き継いだ。書き上げたのは1140年代の終わりごろとみられ、アンナはすでに60歳を過ぎていた。父の死からは30年近くがたっていた。アンナは自分の書く歴史が、父への愛のために偏っていると疑われることを気にかけ、真実を語ることの大切さを何度も書いている。それでも、父を英雄として描く筆の熱は隠せない。

この本が今日とくに重んじられるのは、十字軍の呼びかけに応じて西欧から押し寄せた第1回十字軍を、迎える側から書いた数少ない記録だからだ。アレクシオスは、トルコ人と戦うための傭兵を西に求めていた。ところが、やって来たのは何万もの騎士と巡礼者の大群だった。アンナは、その数を空の星や海辺の砂にたとえ、西欧全体が根こそぎ動いてアジアへ向かってくるかのようだった、と書いている。

十字軍の呼びかけに関わる図版:Passages d'outremer Fr5594, fol. 19r, Concile de Clermont
十字軍の呼びかけWikimedia Commons Jean Colombe · Public domain

アンナの描く西欧の騎士たちは、勇敢ではあるが、粗野で、貪欲で、口が軽く、約束を守らない。都に着いた騎士の一人が、皇帝の玉座に勝手に腰を下ろした場面も出てくる。中でも、南イタリアのノルマン人の指導者ボエモンを、アンナは執拗に描いた。ボエモンはかつて父ロベール・ギスカールとともに帝国に攻め込んだ宿敵で、十字軍に加わったあとは、誓いに背いてアンティオキアを自分のものにした。アンナはその狡猾さを憎みながら、背の高さ、目の色、体つきまで、驚くほど細かく書き、その魅力を認めてもいる。

アンナはまた、西欧の騎士が使う弩(ボウガン)を見て、その威力に驚き、仕組みを詳しく書き留めた。戦場の陣形、攻城の兵器、ギリシアの火と呼ばれる兵器の使い方など、軍事の記述は具体的だ。医学の知識も随所に出る。父の最期の病については、医師たちの診立てと手当てを、そばで見守った者として詳しく記した。

文章は、当時の話し言葉ではなく、古典の時代のアッティカ風のギリシア語で書かれている。ホメロスやトゥキュディデスの言葉づかいを意識し、古典の知識をちりばめた。そのため読みにくく、外国の人名や地名をわざと古風に言い換えるところもあるが、それは学識を示す当時の書き方だった。

中世を通じて、女性が書いた本格的な歴史書はほとんど他に例が無い。『アレクシアス』は、十字軍を東側から見た記録として、また一人の皇女の目で帝国の再建を語った作品として、いまも読み継がれている。西欧の記録だけでは見えない十字軍の姿は、この本と、イスラーム側の記録(物語「『アラブが見た十字軍』で読む十字軍」)とを並べると、立体的に浮かび上がってくる。

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