人物

サムイル

Samuel of Bulgaria
? – AD1014年10月6日
ブルガリア帝国重要度 4

概要

コミトプリ兄弟の末。ビザンツが東ブルガリアを取った後、西で40年戦った。986年、トラヤヌスの門でバシレイオスを破った。オフリドに都。997年、皇帝。兄弟の子を殺し、娘の恋人を殺した。1014年、目を潰された1万5000人を見て倒れ、2日で死んだ。プレスパ湖の島に墓。

関わったできごと(1)

クレイディオンの戦いAD1014年7月29日 · 倒れた

本文

生まれた年は分からない。父のニコラは、ブルガリア帝国の西部、いまの北マケドニアのあたりを治めた地方の長官(伯)で、サムイルはその4人の息子の末っ子だった。兄弟はダヴィド、モイセイ、アロン、サムイル。人々は彼らを「伯の子たち」という意味でコミトプリと呼んだ。

ブルガリアは、7世紀にバルカン半島に入ったブルガール人がスラヴ人を従えて建てた国で、9世紀には東ローマ(ビザンツ)帝国からキリスト教を受け入れ(ブルガリアの改宗)、スラヴ語の文字と典礼を育てた(スラヴ語への伝道)。10世紀の初めにはシメオン1世のもとで、皇帝(ツァール)を名乗り、ビザンツと覇を競うほどの強国になった。だが、その後は衰え、北のキエフ・ルーシの侵入にも苦しんだ。971年、ビザンツ皇帝ヨハネス1世は、ルーシの軍を追い払ったあと、そのままブルガリアの東半分を併合し、都を取り、皇帝ボリス2世を捕らえてコンスタンティノープルに連れ去った。

ブルガリアの改宗に関わる図版:Baptism of the Preslav Court
ブルガリアの改宗Wikimedia Commons Nikolai Pavlovich (1835-1894) · Public domain

ビザンツの手が届かなかった西部に、コミトプリの4兄弟が残った。976年、ヨハネス1世が亡くなると、兄弟は反乱を起こした。だが兄たちは次々に倒れた。ダヴィドは早くに殺され、モイセイはビザンツの町を攻めている最中に戦死した。アロンはビザンツと通じているとしてサムイルに一族ごと殺された。アロンの息子のイヴァン・ヴラディスラフだけは、サムイルの息子が命乞いをして助けられた。こうしてサムイルが、ただ一人の指導者になった。

ビザンツの若い皇帝バシレイオス2世は、反乱を鎮めるために自ら軍を率いてブルガリアに入った。986年、バシレイオスはソフィアを囲んだが落とせず、引き返す途中、バルカン山脈の峠道「トラヤヌスの門」でサムイルの待ち伏せを受けた。ビザンツ軍は大敗し、荷物も皇帝の天幕も奪われ、バシレイオスはかろうじて逃げ延びた。皇帝はこの屈辱を生涯忘れなかったと言われる。

ビザンツ軍による首都プレスラフの攻略
ビザンツ軍による首都プレスラフの攻略Wikimedia Commons from the Middle Ages, unknown · Public domain

その後、ビザンツ帝国は国内の反乱に追われ、サムイルは版図を大きく広げた。北はドナウ川のほとりから、南はギリシアのテッサリアやエピロス、西はアドリア海沿岸、セルビアの一部にまで及んだ。都はプレスパ湖の小島に置かれ、のちにオフリド湖のほとりのオフリドに移された。ブルガリアの教会の長である総主教の座もオフリドに置かれた。997年、名目上の皇帝として立てていたボリス2世の弟ロマンが、ビザンツの捕虜のまま亡くなると、サムイルは自ら皇帝を名乗った。

娘たちにまつわる話も伝わっている。娘の一人ミロスラヴァは、捕虜にしたアルメニア系のビザンツ貴族アショトに恋をし、結婚させなければ死ぬと言ったので、サムイルは二人を結婚させ、アショトにアドリア海の港町デュラキオンを任せた。だが二人はやがてビザンツ側に寝返った。別の娘コサラが、捕虜になっていたドゥクリャ(いまのモンテネグロ)の公ヨヴァン・ヴラディミルと恋に落ちて結ばれた、という話も年代記に見えるが、こちらは伝説の色が濃い。

ビザンツ皇帝ヨハネス1世ツィミスケスが、捕らえたボリス2世とプレスラフの聖像を携え凱旋
ビザンツ皇帝ヨハネス1世ツィミスケスが、捕らえたボリス2世とプレスラフの聖像を携え凱旋Wikimedia Commons Madrid Skylitzes · Public domain

997年、サムイルはギリシアの奥深くまで攻め込んだ帰り、スペルケイオス川のほとりで夜襲を受けて大敗した。サムイルも息子も傷を負い、死者の山の中に身を隠して逃げのびたと伝えられる。この頃から形勢は変わっていった。国内の反乱を片づけたバシレイオス2世は、1001年頃から毎年のようにブルガリアに攻め込んだ。ドナウ川沿いのヴィディンは8か月の包囲の末に落ち、スコピエなどの町も次々に奪われた。バシレイオスは決戦を避け、毎年少しずつ領土を削り取る戦い方をとった。

1014年7月、バシレイオスは、ベラシツァの山中、クレイディオンの峠を固めるサムイルの軍を、背後に回り込んだ部隊で挟み撃ちにした(クレイディオンの戦い)。ブルガリア軍は総崩れになり、サムイルは息子に助けられて逃げた。捕虜は1万4千人とも1万5千人とも伝えられる。ビザンツの年代記によれば、バシレイオスは捕虜を100人ずつに分け、それぞれ99人の両目をつぶし、残る1人は片目だけを残して道案内をさせ、サムイルのもとへ送り返した。数には誇張があるとも言われる。

クレイディオンの戦いに関わる図版:SamuilsDeathBGhistory
クレイディオンの戦いWikimedia Commons from the Middle Ages, unknown · Public domain

目を失った兵の列がプリレプの砦に着いたとき、サムイルはその姿を見て倒れた。心臓の発作だったと考えられている。2日後の10月6日、サムイルは亡くなった。

後を継いだ息子のガヴリル・ラドミルは、翌年、かつてサムイルの息子に命を救われた従兄弟のイヴァン・ヴラディスラフに殺された。そのイヴァンも1018年に戦死し、ブルガリアは降伏して、ビザンツ帝国に組み込まれた。バシレイオス2世は、のちに「ブルガリア人殺し」とあだ名された。ブルガリアが再び独立するのは、それから170年近くのちのことである。

ブルガリア軍による、テッサロニキ総督グレゴリオス・タロニテスの奇襲・殺害
ブルガリア軍による、テッサロニキ総督グレゴリオス・タロニテスの奇襲・殺害Wikimedia Commons from the Middle Ages, unknown · Public domain

1965年、ギリシア北部のプレスパ湖に浮かぶアギオス・アヒレイオス島の教会の跡で、金の刺繍のある衣をまとった男性の遺骨が見つかった。発掘した考古学者は、これをサムイルの墓だと考えた。サムイルは、ブルガリアでは中世の帝国を最後まで守った皇帝として、北マケドニアではオフリドを都にした自分たちの土地の王として、どちらでも英雄とされ、どちらの国の歴史に属するかをめぐって、いまも議論が続いている。

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