ローマ法大全
概要
千年分のローマ法を整理して一つにまとめた。中世以降のヨーロッパ法の土台になる。
場所
41.01°N 28.98°E · トルコ・イスタンブール
関わった人(1)
ユスティニアヌス1世AD482年頃–AD565年11月14日 · 命令本文
東ローマ皇帝ユスティニアヌス1世の命令で、千年分のローマ法が整理され、一つにまとめられた。勅法を集めた改訂版が534年に公布されたことで、その事業はひとまず完成した。後に「ローマ法大全」と呼ばれる法の集成である。この名は皇帝が付けたものではなく、16世紀に刊行された版の題から広まった。
ローマの法は、紀元前5世紀の十二表法から数えると、千年近く積み重なる一方だった。民会の決議、元老院の議決、政務官の告示、歴代皇帝の勅令。さらに、法学者たちが個々の事件について書いた意見が、帝政の初期から権威ある法源として扱われていた。ガイウス、パピニアヌス、ウルピアヌス、パウルスといった2世紀から3世紀の大法学者の著作は膨大で、互いに食い違うところもある。どの勅令が今も有効で、どの学説に従えばよいのか、判断できる者はほとんどいなかった。438年に東の皇帝テオドシウス2世が勅令を集めた法典を作ったことはあったが、学説には手をつけていなかった。

ユスティニアヌスは527年に即位すると、すぐにこの仕事に取りかかった。528年に委員会を作り、まず歴代の勅令を整理させて、翌529年に勅法集を公布した。続く530年、もっと大きな事業を命じる。過去の法学者たちの著作を読み、使えるところを抜き出して、一つの体系にまとめよというのである。
中心になったのは、法務長官の地位にあったトリボニアヌスだった。法学の教授や弁護士ら十数人とともに、皇帝によれば2000冊、300万行を超える書物を読み、15万行ほどに縮めた。532年のニカの乱では、怒った群衆がトリボニアヌスの罷免を要求し、皇帝は一時彼を職から外したが、乱がおさまると呼び戻している。作業は3年ほどで終わり、533年12月、50巻からなる学説彙纂(ディゲスタ)が公布された。ギリシア語ではパンデクタイ、「すべてを含むもの」とも呼ばれる。

同じ533年には、法学を学び始める学生のための教科書として法学提要(インスティトゥティオネス)も作られた。2世紀のガイウスの教科書を土台にしたもので、人、物、訴訟という順に法を説明していく。そして534年、それまでに出された新しい勅令を加えて勅法集を改訂し、勅法彙纂(コデクス)の第二版として公布した。最初の版は伝わらず、いま読めるのはこの第二版である。
さらに、534年より後にユスティニアヌスが出した勅令が、皇帝の死後に集められて新勅法(ノウェッラエ)と呼ばれる。これが四つ目の部分になる。新勅法の多くは、ラテン語ではなくギリシア語で書かれている。東ローマ帝国の日常の言葉はすでにギリシア語で、皇帝の法典は、ラテン語で書かれたローマ法の最後の大きな仕事でもあった。

学説彙纂の意味は大きい。元になった法学者たちの著作は、その後ほとんどが失われた。皇帝が、学説彙纂に取りこまれた分だけを有効とし、元の本を引用することを禁じたため、写されなくなったのである。ここに抜き書きされた文章を通して、私たちは古典期のローマ法学をのぞくことができる。抜き書きのおよそ3分の1は、ウルピアヌスのものだとされる。
同じ頃、ユスティニアヌスはコンスタンティノープルにハギア・ソフィアの完成を建て直させ、将軍ベリサリウスを送って北アフリカとイタリアを取り戻させていた(ユスティニアヌスの再征服)。法の整理も、ローマ帝国をかつての姿に戻そうとする同じ志の一部だった。しかし取り戻した西方は皇帝の死後まもなく再び失われ、イタリアではローマ法大全の大部分が長く忘れられることになる。

11世紀の末、北イタリアで学説彙纂の写本が再び読まれ始める。6世紀の写本がピサに伝わっていたことが知られており、のちにフィレンツェへ移されて、今も残っている。ボローニャでは法学者イルネリウスが学説彙纂を講じ、各地から学生が集まった。これがボローニャ大学の創立の始まりの一つとされる。学者たちは本文の行間や余白に注釈を書きこみ、その注釈が集められて、さらにそれを研究する学問が生まれた。
そこから、ヨーロッパ大陸の法の体系が組み上がっていく。ローマ法は、教会の法と並んでヨーロッパ全体に通じる共通の法として大学で教えられ、各地の裁判官や役人はその教育を受けた。19世紀には、それが近代の法典になる。1804年のナポレオン法典は法学提要の並べ方に学んでいる。ドイツでは学説彙纂を体系的に研究する学問が「パンデクテン法学」と呼ばれ、その成果が1900年に施行されたドイツ民法典になった。

いまの日本の民法も、この系譜に連なる。明治政府は初めフランスの法学者ボアソナードに民法を起草させたが、論争の末に作り直し、ドイツ式の並べ方を取り入れて1898年に施行した(明治民法と家制度)。総則、物権、債権と、一般的な決まりを先に置いて具体的な決まりへ進む日本の民法の組み立ては、「パンデクテン方式」と呼ばれる。その名は、6世紀のコンスタンティノープルで編まれた学説彙纂のギリシア名から来ている。一方、イギリスやアメリカの法は、判例を積み重ねる別の道を歩んだ。
東ローマ帝国自身では、法典はギリシア語に訳されて使われ続け、9世紀末にはそれを組み直した大きな法典も作られた。ユスティニアヌスが目指した帝国の再興は長続きしなかったが、彼の法は国が滅んだ後も、遠い国々で生き続けている。