ウラジーミル1世
概要
兄を殺してキエフを取り、異教の神々を並べ、それから宗教を選んだ。イスラームは酒を禁じるから駄目、と。コンスタンティノープルの皇女を妻に求め、洗礼を受け、民をドニエプルに入れて洗礼させた。聖人。
所属
キエフ・ルーシ関わったできごと(1)
キエフ・ルーシの改宗AD988年 · 大公本文
ウラジーミル1世は、10世紀の末にキエフ・ルーシを治め、ビザンツ帝国から正教の洗礼を受けて、国の宗教をキリスト教に変えた大公である。ウクライナ語ではヴォロディーミル、古い記録ではヴォロディメルと書かれる。958年頃、キエフ大公スヴャトスラフの子として生まれた。母はマルシャという名で、祖母オリガに仕える女だったと『原初年代記』は記す。正妻の子ではなかったこの出自は、のちに彼を「奴隷女の子」とさげすむ言葉になって返ってくる。

970年、父は三人の息子に国を分け、まだ少年のウラジーミルを北の交易都市ノヴゴロド(ルーシの成立)の公にした。父はドナウ方面への遠征を重ね、972年、帰り道にドニエプルの早瀬で遊牧民ペチェネグに討たれた。残された兄弟はすぐに争いを始める。キエフの長兄ヤロポルクが次兄オレーグを攻め、オレーグは逃げる途中で死んだ。身の危険を感じたウラジーミルは海を渡ってスカンディナヴィアへ逃れ、ヴァリャーグ(北欧の戦士たち)を雇い入れて戻ってきた。
キエフへ向かう前に、彼はドヴィナ川沿いのポロツクの公女ログネダに結婚を申し込んだ。年代記によれば、ログネダは奴隷女の子の靴を脱がせることはしないと答えた。花嫁が婿の靴を脱がせるのが婚礼の習わしだった。ウラジーミルはポロツクを攻め落とし、ログネダの父と兄弟を殺して彼女を妻にした。そして978年頃(980年とする記録もある)、キエフを囲み、和議と偽って呼び出したヤロポルクを、部下のヴァリャーグに刺し殺させた。兄の妻で、かつてギリシアの修道女だった女性も自分の妻にした。

キエフの主となったウラジーミルは、最初は異教の神々を盛り立てた。宮殿の外の丘に、銀の頭と金の口ひげを持つ雷神ペルーンをはじめ、六柱の神々の像を立て、生贄をささげた。983年には、生贄に選ばれたヴァリャーグのキリスト教徒の若者を父が差し出すのを拒み、父子ともに殺されたと年代記は伝える。年代記はまた、彼が多くの妻と数百人の側女を抱えていたと、改宗前の放埒を強調して書いている。
その彼が宗教を選ぶ物語が、『原初年代記』の986年と987年の項にある。まずヴォルガ川中流のブルガールのムスリムが来て、自分たちの信仰を説いた。割礼をし、豚を食べず、酒を飲まないと聞くと、ウラジーミルは、酒を飲むことはルーシの喜びであり、それなしには生きられないと言って退けた。ドイツから来たローマの教会の使者には、断食を重んじると聞いて、父祖はそれを受け入れなかったと答えた。ハザール(ハザールの滅亡)のユダヤ教徒には、お前たちの国はどこにあるのかと問い、神に散らされた民の信仰を受け入れることはできないと言った。最後にギリシアの学者が来て、世界の始まりから最後の審判までを語った。

ウラジーミルは使者を各地に送って礼拝を見させた。コンスタンティノープルのハギア・ソフィアの完成で礼拝に立ち会った使者たちは、帰ってきて、自分たちが天にいるのか地にいるのか分からなかった、あれほどの美しさは地上に無いと報告したという。これは後から整えられた物語で、そのまま事実とは受け取れない。それでも、ルーシの人々が自分たちの改宗をどう記憶したかを示す話として名高い。
実際の改宗は、ビザンツ帝国の苦境と結びついていた。皇帝バシレイオス2世は将軍バルダス・フォカスの反乱に追い詰められ、北の大公に援軍を求めた。ウラジーミルは6000人ほどの兵を送り、その見返りに皇帝の妹アンナを妻に求めた。紫の間に生まれた皇女が異国の君主に嫁ぐのは前例のないことで、約束はなかなか果たされなかった。ウラジーミルはクリミア半島のビザンツの町ケルソネソスを攻め落として圧力をかけ、ついにアンナを迎えた。彼は洗礼を受けて皇帝と同じワシーリー(バシレイオス)の名をもらい、988年頃、アンナと結婚した(キエフ・ルーシの改宗)。年は989年とする説もある。このとき送られたヴァリャーグの兵が、ビザンツ皇帝の親衛隊の起こりになったとされる。

キエフに戻ったウラジーミルは、自分が立てた神々の像を倒させた。ペルーンの像は馬の尾に結ばれて丘から引きずり下ろされ、棒で打たれたのちドニエプル川に投げ込まれた。そして町の人々に川へ入るよう命じ、明日来ない者は富める者も貧しい者も私の敵だと告げた。人々は川に入り、ギリシア人の聖職者が洗礼を授けた。ノヴゴロドなど他の町では抵抗もあり、改宗は力で押し進められた面もあった。
改宗のあと、ウラジーミルはキエフに石造りの聖母教会を建て、収入の十分の一を当てたことから「十分の一税の教会」と呼ばれた。貴族の子弟を集めて書物を学ばせると、母親たちは子が死んだかのように泣いたと年代記は書く。ギリシアから来た司教たちの勧めでいったん盗賊の死刑をやめ、罰金に切り替えたが、盗賊が増えたため司教たちが元に戻すよう勧めた、という話も残る。

晩年、ウラジーミルはノヴゴロドを治める息子ヤロスラフが貢納を拒んだのに怒り、討伐の準備をしていた。その最中の1015年7月15日、キエフ近くのベレストヴォの離宮で死んだ。たちまち息子たちの争いが始まり、スヴャトポルクが弟のボリスとグレブを殺させた。抵抗せずに死を受け入れた二人は、ルーシで最初に聖人とされた人々になる。争いに勝ったのはヤロスラフで、のちに賢公と呼ばれた。
ウラジーミル自身も、のちに聖人に加えられ、「使徒に等しい者」と称される。キエフのドニエプル河畔には1853年に十字架を掲げた像が立ち、2016年にはモスクワのクレムリンの前にも巨大な像が建てられた。キエフ・ルーシの継承をめぐって、ロシアとウクライナはともに彼を自分たちの国の祖と見なしている。彼が選んだ正教は、その後千年にわたって東スラヴの人々の文字と教会と国家のかたちを決めた。