シメオンの皇帝称号
概要
ブルガリアの王がコンスタンティノープルの城壁の前で総主教に冠を受け、「ブルガリア人とローマ人の皇帝」を名乗った。ビザンツは認めなかったが、ツァーリという称号はここから始まり、ロシアが受け継ぐ。
場所
43.17°N 26.82°E · ブルガリア
関わった人(1)
シメオン1世AD864年頃–AD927年 · 皇帝本文
9世紀の後半、バルカン半島の北東部を治めるブルガリアは、ボリス1世のもとでキリスト教を受け入れた(ブルガリアの改宗)。ボリスの三男シメオンは、864年ごろの生まれで、少年のころビザンツ帝国の都コンスタンティノープルに送られ、10年ほど学んだ。ギリシア語の古典に通じ、のちにイタリアの年代記作家リウトプランドは、彼を「半分ギリシア人」と呼んでいる。父はシメオンを、ブルガリアの教会を率いる聖職者にするつもりだった。
ところが、ボリスが位を譲って修道院に入ったあと、王となった長男ウラジーミルは、キリスト教を捨てて古い神々の信仰に戻ろうとした。893年、ボリスは修道院から出てきて長男を退け、その目を潰させた。そして国の主だった人々を集めた会議で、修道士になっていたシメオンを新しい君主に立てた。同じ会議で、都はプリスカからプレスラフへ移され、教会と国の言葉は、ギリシア語ではなくスラヴ語とすることが決められたとされる。

シメオンの時代は、ブルガリアの文化の黄金時代と呼ばれる。キュリロスとメトディオスの弟子たちが、モラヴィアを追われてブルガリアへ逃れてきていた。オフリドのクリメントやプレスラフのナウムが学校を開き、ギリシア語の聖書や説教、年代記がスラヴ語に訳された。ギリシア文字をもとにした新しい文字、のちにキリル文字と呼ばれる文字も、この頃のブルガリアで形を整えたと考えられている。シメオン自身も、教父ヨアンネス・クリュソストモスの説教を選んでスラヴ語の説教集を編ませた。プレスラフには、金色に輝く円い教会が建てられた。
一方で、シメオンは30年にわたってビザンツ帝国と戦い続けた君主でもあった。きっかけは894年、ビザンツがブルガリア商人の市場をコンスタンティノープルからテッサロニキへ移し、重い関税をかけたことだった。シメオンが攻め込むと、ビザンツは北のマジャール人をそそのかしてブルガリアを背後から襲わせた。シメオンはさらに東のペチェネグ人と結んで、マジャール人の本拠を襲わせた。故郷を追われたマジャール人は西へ移り、ドナウ中流の平原に住みついた。いまのハンガリーの始まりである。896年、シメオンはブルガロフュゴンでビザンツ軍を破り、有利な和平を結んだ。

913年、ビザンツの皇帝アレクサンドロスが死に、7歳のコンスタンティノス7世が残された。シメオンはこの機に大軍を率いてコンスタンティノープルの城壁の前に現れた。摂政の総主教ニコラオスは、城壁の外でシメオンを迎え、儀式を行って何かを彼の頭に置いた。それが皇帝の冠だったのか、総主教自身のかぶり物だったのかは、史料の書き方があいまいで、研究者の解釈も分かれている。いずれにせよシメオンは、このとき「皇帝(バシレウス)」の称号を受けたと考えた。シメオンの娘を幼い皇帝の妃にする約束も結ばれたとされる。
だが翌914年、皇帝の母ゾエが実権を握ると、この取り決めは取り消された。怒ったシメオンは戦争を再開し、917年、黒海沿岸のアケロオス川のほとりでビザンツの主力を壊滅させた。半世紀あまり後のビザンツの歴史家は、その戦場にはいまも骨の山が見える、と書いている。シメオンはその後、自らを「ブルガリア人とローマ人の皇帝」と名乗った。ローマ人とはビザンツ人のことで、ビザンツの帝位そのものを狙う称号だった。924年には再び都の前に迫り、皇帝ロマノス1世と会見したが、陸の大軍だけでは、海に守られた大城壁は落とせなかった。

927年5月27日、シメオンは急に死んだ。ビザンツには、ロマノスがシメオンの運命と結びついた柱の像の首を落とさせたその時刻に、シメオンが死んだという伝説が残る。跡を継いだ息子ペタルはビザンツと和を結び、ロマノスの孫娘を妃に迎え、「ブルガリア人の皇帝」の称号を認められた。ブルガリアはその後衰え、11世紀のはじめ、サムイルの抵抗の末にビザンツに併合される。
ブルガリアの君主が使った「ツァーリ」という語は、古代ローマの「カエサル」に由来し、スラヴの言葉で皇帝を意味した。のちにセルビアの王も皇帝を名乗り、16世紀にはモスクワのイヴァン4世(雷帝)が正式にツァーリとして戴冠する。ローマの皇帝に並ぶ者という称号の系譜は、シメオンがコンスタンティノープルの城壁の前で求めたものから始まり、北のロシアへと受け継がれた。シメオンのもとで育ったスラヴ語の文字と文学も、同じ道をたどって東方の正教の世界へ広がっていった(第一次ブルガリア帝国)。